TOP 書評再録 『教育』という過ち─生きるため・働くための「学習権利」へ─

『教育』という過ち─生きるため・働くための「学習権利」へ─

「産業教育学研究」第48巻第2号 2018年7月
評者:植上一希(福岡大学)

田中萬年著
『「教育」という過ち
一生きるため・働くための「学習する権利」ヘー』

1.はじめに
本書は、職業訓練の研究,実践をリードし続けてきた田中高年氏(以下、著者)が「職業

訓練の世界に職を得て50年になることを期し、これまでの仕事の過程で得た知見」をまとめた、いわば研究の集大成といえるものである。著者はこれまでも数多くの著書・論文を世に出しているが、その内容をより統合的に発展したのが本書であり、職業訓練の立場から一般の「教育」観念に批判を行ってきた著者が、『「教育」という過ち』という刺激的なタイトルで正面から「教育」観念に対時しているのが本書の特徴となっている。

2.本書の概要
本書の構成は、以下の通りである。章タイトルがその章のポイントを的確に表現しているため、サブタイトルまで記しておく。

序 論 「教育」は官製語である
      educationは「教育」ではない
第1章  「教えること」と「学ぶこと」
      明治以前の人間育成の確立と分化
第2章  学習支援のために設立した文部省と学校
     教育に変質した文部省と学校
第3章 国民の権利にならない「教育を受ける権利」     
     戦前の「教育」を信奉した"民主"観
第4章 「教育勅語」と共存した「教育基本法」
     educationの観念を無視した文部省
第5章 educationを「学習」とした第二の意訳
    「生涯学習」という自己責任論と
            職業能力開発の包摂
第6章 職業を分離した学問観 
     人間的成長を体系化できない職業教育振興策

構成をみればわかるように、本書が徹底してこだわるのが日本における「教育」観念の問題性である。ただ、付言するならば、本書が分析する対象や扱うサブテーマは多岐にわたっており、それ自体が本書の魅力となっている。いくつかの点については3節でふれるが、概要紹介においては本筋の議論だけ扱いたい。
序論では、日本において明治期以降定着してきた「教育」観念の問題性のルーツが、educationの誤訳にあること、とくにその誤訳が「上から」の形=官製的になされてきたことが論じられ、次の2点が問題点として提起される。
第1が、educationと「教育」における自動詞・他動詞的意味合いの差異である。

educatiOnは「能力の開発」という意味をもちそこには他動詞のみならず自動詞があるが、「教育」には自動詞がない。自動詞がない「教育」にeducationが訳されてしまったことにより、受動的な教育観が定着してしまったというのが、第1の問題点である。
しかも、その「誤訳」を進めたのが為政者=支配層であり、第1のポイントと合わさって、為政者からなされる営みとしての本質を有する「教育」が定着してしまった、というのが第2の問題点である。
この序論で提起された2つの問題点を基軸にして、明治期から現代にいたる様々な問題点が1章から6章まで論じられている。
1章では、江戸期の人間育成が検討される。
ここで著者が強調するのは、庶民と武士によって人間育成のあり方が異なっていたという階級的観点である。「生きるためには働かねばならない」庶民は職業世界のなかで職業能力や勤労観を学ぶのに対し、武士階級はそれとは異なり支配者のための教育を受けていた。そして後者の形が明治期以降につながっていったというのが、 1章のポイントである。
2章では、明治期以降の「教育」の主アクターとなる文部省と学校について、その名称に着日した検討がなされる。
もともと、それらは「学問(文)」のための機関としてスタートしたが、富国強兵策の進展のなかで教育が位置づけられ、教育のための文部省・学校とされていったという。
3章では、日本国憲法に規定された「教育を受ける権利」とそれをめぐる教育権論が批判的に検討される。
とくに、問題視されるのは「受ける」という語句の受動性。この受動性が憲法に規定されてしまったこと、そして、それについて教育学の議論においても本格的な批判がなされてこなかったこと、それゆえに、日本の「教育」観念が受動的になってしまったというのが3章の中心的な議論である。
4章では、憲法に続いて教育基本法が俎上にあげられる。
とくに、問題視されるのはGHQの案においてeducationの目的として職業の訓練が重視されていたのにも関わらず、教育基本法において、それは勤労の場所における教育という形に狭小化された点である。職業と教育との関係性が狭小的に処理され、しかもほぼ教育を学校内に限定する要因が、教育基本本法に存在したことを著者は批判している。
5章では、日本における「生涯学習」観念の問題が批判的に検討される。
そもそも、1970年代のL旋long EducatiOnは労働者の能力向上のために主張された概念であり、いわば職業・労働に関するeducatiOnであった。しかし、それが日本においては「生涯学習」とされるなかで、上記の職業・労働に関するという性格が薄れ、自己責任的な概念になったことを、著者は批判する。
6章では、労働による人間育成論がとりあげられ、それが日本においてほぼ看過されてきたことへの批判が述べられる。
すなわち、原理的にも実践的にも労働陶冶は重視されて然るべきであるが、日本においては職業教育に対置される「普通教育」が重視され、労働による人間育成は政策的。実践的にほとんど展開されてこなかったというのが、6章の主張である。

3.職業世界にノンエリート層が主体的に対峙するために
上述してきたのは本書の本筋の概要にすぎない。本書が扱うテーマ・論点は多岐にわたり、それ自体が本書の魅力の1つとなっているが、限られた紙幅では扱いえない。それは、ぜひ読んでいただきたいと思う。
評者にとって、本書(そして著者)の最大の魅力は、その大胆な議論であり、そのエートスにある。2002年に刊行された『生きること・働くこと・学ぶこと』から本書に至るまでの主張に通底するものを、評者なりに以下、論じていきたい。

教育・学習の再編成という視野
著者が今までも主張してきたことであり、そして本書の主張でもっとも中心に位置するのは、現代日本の教育・学習のあり方を再編成すべきだというものである。再編成の方法(対象)としては、大きく分けて構造と規範があるが、著者がとくに重点を当ててきたのは後者であり、『「教育」という過ち』というタイトルが端的に示すように本書では、「教育」観念に焦点が当てられた議論が展開される。その際、対象とされるのは、前節の概要紹介でみたように、日本国憲法、教育基本法、教育権論、生涯学習概念など、現代日本の教育・学習の規範が集約されるものとなっている。
当然のことながら、それらの研究対象・研究方法は、評者も含めて多くの研究者にとってチャレンジすることが非常に難しいものである。そうした難課題に対峙し、そこから著者なりの再編成の観点を打ち出していること、これが本書からまず学ぶべき姿勢だと考える。

階級的観点からの権利論の展開
では、再編成にあたり著者が重視する観点とは何か。第1の基底としておかれるのが、階級的視点である。本書において、「教育」観念は徹底して批判の対象におかれるが、それはその観念が単に受動的であるからではない。著者が重視するのは、為政者=支配層によって庶民の学習活動観が受動的なものとなってしまうことを問題視するのである。
すなわち、著者の分析枠組みとして、第1におかれているのが、この階級的観点である。江戸期から現在へと続く庶民一労働者階級にとっての学ぶ権利は、支配階級の介入を是とする観点からは決して勝ち取られるものではない。そうした問題意識から、著者は支配階級の介入を無意識的に肯定させる「教育」観を徹底して批判するのである。
ここで、宮原誠一が青年期教育の再編成にあたっての基本的視点として、勤労青年の権利としての教育の感覚を重視し、「誰のための、何のための教育か」という問いを中心においたことを想起したい。著者が重視する階級的観点は、こうした教育学研究の伝統的方法意識と深く通じており、その現代的な再考を促すものとして位置づくのである。

労働・職業と教育・学習の統合的把握著者の分析枠組みとして、第1の観点と連関して、第2におかれているのは、労働・職業と教育・学習を分離することなく、統合的に把握するという観点である。
著者が端的に述べるように、労働者階級にとっての生活は労働を基軸としてなされるものであり、この労働を基軸とする生活を彼らにとって主体的なものにするためにこそ、教育。学習はあらねばならない。だからこそ、「生きること・働くこと・学ぶこと」は分離してとらえられるべきものではなく、統合的にとらえられるべきものである。
長年、職業訓練の世界で勤労諸階層の労働・生活・学びに携わってきた著者だからこそ、単なる労働陶冶論ではなく、現実に即した、そして階級的な観点を重視した議論を展開しえている。本書でも5章、6章で近年における職業能力開発政策やキャリア教育関連政策が批判的に検討されるが、これらの動向が強まるなかで、著者が提起するこの観点は、一つの理論的な錨(アンカー)となるべきだ。

職業世界にノンエリート層が主体的に対峙するために
最後に、評者の著者に対する個人的な思いを述べて、この書評を終えたい。博士課程に在籍していた2000年代中盤、田中先生が主催するエルゴナジー研究会に参加したのが、初めての出会いだった。ノンエリート青年を対象とする青年期教育・職業教育を研究するにあたって、田中先生が当時から主張されていた職業教育・訓練論、そして教育学批判は、とても刺激的であり、教育学における多くの呪縛を解く契機を与えてもらった。そして、田中先生が、研究と実践で常に大事にされる観点を、大事なエートスとして私なりに継承していきたいと考えてきた。
そうしたエートスの1つの集大成が本書であることは間違いない。今後の産業教育学研究の発展を展望する際、私たちの世代が対峙しなければならない課題の大きさに負けそうになることも多い。そのなかで、本書でまとめられたエートスが、私たちを励ますものとなると、強く思う。そして、本書の発展的継承も、私たちの大きな課題となるはずだ。
(批評社、2017年、272頁、2500円十税)