TOP 読者の声 MHL35『ボケを活きるとは?精神科医の加齢体験と認知症ケア論』を読んで

MHL35『ボケを活きるとは?精神科医の加齢体験と認知症ケア論』を読んで

MHL35『ボケを活きるとは?精神科医の加齢体験と認知症ケア論』

久場政博著『ボケを活きるとは?精神科医の加齢体験と認知症ケア論』批評社(東京 1015年)

秋田大学(秋田市)新山喜嗣

一人称としての認知症

  本著を手にしたとき、最初に驚かされるのは、今では聞くことが少なくなった「ボケ」という言葉が、こともあろうにタイトルとして使用されていることである。もちろん、のちに文中でその真意が記されているのだが、その記述を待つまでもなく、この言葉が付帯するかもしれない卑下や差別のニュアンスが微塵も感じられないのは、著者の患者に対する慈愛や臨床への真摯な態度が、読み出してすぐに読者に伝達されてしまうからであろうか。本著では、臨床事例が所々で紹介されつつ、「病的ボケ」と「普通ボケ」の違いがわかりやすく説明され、さらに、著者の長年の臨床経験に裏打ちされた両方の「ボケ」への対処法へのコツが示されてゆく。
  一見すると、本書の意図がこの二つの「ボケ」の違いを明確化することにあるように見えてしまうかもしれない。しかし、このようなオモテの構図のうしろにあるウラの構図として、逆に、この二つの「ボケ」の両者が共有する人生の重要な要素が語られているように思われてしかたがない。それは、本著で繰り返し述べられる「いま・ここ」という視点である。確認するが、本著ではこの「いま・ここ」を最後まで否定的な文脈の中で用いることはされていない。たしかに、一般に認知症では、過ぎ去ったことへの振り返りと、これから到来する将来への見渡しの両方ができなくなり、時間の幅をもたない狭小な今という瞬間に生きているということが喧伝されるようになって久しい。しかし、本著では少しも「いま」が卑小化されることはなく、このことは「ここ」についても同様である。なぜ、著者はこのように「いま・ここ」にこだわり続けたのであろうか。
  ミスリーディングを恐れずに言うならば、著者が真にこだわったのは一人称としての比類のない自分であり、なぜなら、比類のない自分こそが「いま」と「ここ」を目の前に繋留するものだからである。著者の意図する「いま」は、人生のどの時点も「いま」だったにもかかわらず、それらに還元されることのない固有の「いま」である。「ここ」についても同様に固有の「ここ」である。そして、それらの繋留点となる比類のない自分が、老いを迎えた時間と空間の一点に現存することのかけがえのなさが、隠喩として鋭く示し出されているように思われる。
  いまや、これまでに多くの人々によって論述されてきた二人称や三人称の「ボケ」ではなく、もはや普通ボケであっても病的ボケであっても変わることがない、内面から体験される一人称としてのボケの瞬間の、人生における尊さを語りつつ、本著の結論が目指されているように思われる。もちろん、そこには老いに対する著者独自の人生観が見え隠れしていることは疑いない。(「秋田医報」No.1479 27.10.1)より転載。