TOP 差別と人権を考える PP選書 ヘイトの言葉はこうしてつくられる

PP選書 ヘイトの言葉はこうしてつくられる

  • 八木晃介
  • 価格 1800+税円
  • 判型:46判、198ページ、並製
  • ISBN 978-4-8265-0704-2
  • 初版発行年月 2019年9月25日
  • 発売日 2019年9月27日

内容紹介文

まえがき
「言葉」というものを、辞書は次のように定義しています。「ある意味を表すために、口で言ったり字に書いたりするもの。語、言語」(『広辞苑』岩波書店)、「人の発する音声のまとまりで、その社会に認められた意味をもっているもの。感情や思想が、音声または文字によって表現されたもの。言語」(『大辞林』三省堂)。
この辞書的な考え方は、コミュニケーションの現実のありようを考えれば、明らかに一面的です。
というのも、コミュニケーションは記号(身振り、表情、言葉、文字、映像etc.)を媒介にした過程の総体を具現するものですから、言葉と文字にだけ限局するのは間違いなのです。
言葉による以外のコミュニケーション(nonverbal communication, paralanguage)には身振り、手振り、身体接触、顔の表情、視線、距離の取り方、話し方、抑揚等々が含まれますが、アメリカのある研究によれば、二者間対話においては、メッセージ(コミュニケーションの内容)の六五%は言葉以外の手段によるもので、言葉で伝えられるのは三五%にしかすぎないということです(M・F・ヴァーカス、石丸正訳『非ノンバーバル言語コミュニケーション』、新潮選書)。
むろん、身振り・手振りの大袈裟な欧米人と、そうではない東洋人との間の差は大きいようにも思われますが、この国でも「目は口ほどにものを言う」との俚諺が示すような事態はじゅうぶんにありえます。言葉に出さなくても、目の表情で相手に伝えることができる、あるいは、言葉でうまく誤魔化しても、目に本心が表れるというほどの意味です。象徴的相互作用論と呼ばれる社会学流派の始祖G・H・ミードなどは、いささか極端に、社会過程を進行させる根本式なメカニズムはgesture(身振り)であるとし、言葉を「音声身振り=vocal gesture」として位置づけました(稲葉三千男ほか訳『精神・自我・社会』青木書店)。
とはいうものの、言葉(言語)それ自体の常識的な定義としては、上記の辞書的な説明でじゅうぶんかもしれません。つまり、「意味を表すもの」「意味をもっているもの」を言葉の主な属性と理解して、さほど問題はないように思われます。というのも、言葉と意識(意味付与機能)とが常に同伴するものであること、このことは間違いない事実だからです。よしんば言葉と意識とが逆走する場合でも、その両者が密接に繋がって同伴しているがゆえの逆走とみるべきでしょう。
それはそれとして、しかし、言葉がになうことになっている「意味」とは何か、という問題になると、ことはさほど単純ではありません。前記のミードなどは、人間が相互作用を営むためには通常、人間が?意味あるシンボル?を共有している必要があるとしています。意味あるシンボルというのは、相互作用への参加者の全員が、そのシンボル(ここでは、言葉)の使用の実践的帰結を事前的にかなりクリアに理解しているシンボルのことを指しています。一番わかりやすい事例でいえば、専門家同士が専門語(一種のジャーゴン)で語り合う場面です。彼らはある意味で特例化した文脈において意味あるシンボルであるような用語を用いますが、それは一定の意味あるシンボルを自分と相手との間でシェアしているという一種の?集団安全保障?の能力に依存していることを示しているはずです。
このことを別の表現でいえば、たとえば「文化資本」といった概念で有名な社会学者P・ブルデューは、人間が言葉を話したり、身振り(ジャスチュア)で行動したりする形態は習慣化された方法(ハビトゥス)によって生みだされるとし、そのハビトゥスには社会階層的な背景と相関しているはずの?言語の使い方を示す指標?のようなものが含まれているに違いないと考えました(原山哲訳『資本主義のハビトゥス』藤原書店)。大学の校門を出るときに「ごきげんよう」というか、「あばよ」というか、それもまた一つの指標になるかもしれません。
ところで、一般意味論といわれる領域が示唆しているのは、言葉がそれ自体として意味をもっているのではなく、その言葉をやりとりする人々が意味を保有しているということであり、人々はこれらの意味を一定のシンボル(言葉)にあてはめているにすぎないということです。コミュニケーション論の文脈で言えば、意味はメッセージの中にはなく、メッセージをやりとりする人々の中にあるということになりましょう。卑近な例でいえば、「おまえはなんと頭のよい人間だ」という言葉にみられる両義性(称賛と嘲罵)です。罵られているのに褒められていると誤解しないのは、その場での両者の関係性や、それまでの会話の文脈が相互理解的に作用するからです。
すでに記したように、ある人が一つのシンボルにあてはめる意味は、多くの場合、その人の社会的背景に依存している、もしくは社会的背景を反映している、さらには社会的背景に規定されているといえましょう。資本家と労働者とがシンボルにあてはめる意味が大きく異なるであろうことは自明であり、ゆえに同じコンセプトを表現するために資本家と労働者とによって用いられるシンボルもおおきく異なる可能性があります。ここで分かることは、人々の発話の社会的な受容能力が、場合によっては、ある種の差別の源泉になるかもしれないという点です。
ここまでくれば、問われるべきは「意味の意味」であるということが分かろうというものです。意味がそれ自体として存在するのではなく、いわば関係の結節点として存在するとすれば、問題の焦点が「関係の結節」のありように集中するであろうことは見やすいところです。関係の結節点に「意味の意味」を見出そうとするのが、本書のさしあたりの目標です。
関係の結節のありようを考える場合、丸山圭三郎の次のような重要な指摘も考慮に入れなければなりません。「近代以降を例にとれば、個別言語のもつ〈意味〉は各人が自発的に創出するものではなく、国家レベルの公教育やマス・コミ文化によって教えられ与えられるものでしかない。言語が制度であり権力でありドクサであると言われるのは、この点においてであり、私たちの言語=意識は、いわば社会的に登録ずみの既成の意味の完全なる支配下にある」(『社会学事典』弘文堂)。
端的にいえば、国家権力(国権)の言説に対峙すべき人権的言説がしばしば苦闘しなければならないのは、国権が強大であるということに加えて、国権的言説を打倒して人権的言説を展開すべき私たちの内部にすでにして国権的言説が巣くっている、そうであるがゆえに、私たちは私たちの外部と内部の両方に二重対峙しなければならないからです。差別表現や、その極限的展開ともいうべきヘイト・スピーチの内実を「社会的に登録ずみの既成の意味」と言い切っては過言になりますが、しかし、本質的には同様の問題性のもとにあるといえましょう。
コミュニケーションはいうまでもなく、記号を媒介とする相互作用過程を意味しますが、そのことの内実を整理すれば、?コミュニケーションは記号(身振り、表情、言葉、文字、映像など)を媒介にした過程である?情報が移動するのではない。「伝達」は意味の共有だが、それは近似的なものにすぎない?コミュニケーションは相互作用であり、一方的な過程ではない?コミュニケーションの意味を決定するのは「受信者=受け手」の反応である?コミュニケーションは反省的な過程である―ということになります。しかし、現実社会で展開されるヘイト・スピーチに接すると、思いは相当に複雑にならざるをえません。
というのも、既述のミードのコミュニケーション論においては音声身振り(言葉)の特異性として、発信者の言葉は相手(受信者)に聞こえるように自分にも聞こえる、という点があげられているからです。つまり、相手に引き起こす反応を同時に自分自身にも引き起こすものが言葉であって、そうした他者の反応を自分の内部に摂取できるのが媒介物である言葉であるということになるのです。このような仕組みにおいて、人間は自分の言葉の意味を意識化でき、そこから自我意識が発生するというのがミードの考え方です。自我があってコミュニケーションできるのではなく、コミュニケーション・プロセスから音声身振り(言葉)を媒介に自我が生じるという次第です。だが、はたしてヘイト・スピーチの発話者にこのミードの図式が妥当するかどうか、きわめて微妙かつ疑問であって、本書ではこうした点にも議論を進展させたつもりです。
私たち人間はさながら言葉(言語)の海を泳ぐ魚に似ているのではないか。海を泳ぐ魚から海をとりあげれば、魚はたちまちにして干上がってしまいます。同様に、私たち人間が依存している言葉(言語)のコンテクスト(関係性と状況的文脈)を取り去ってしまえば、私たち人間はもはや認識的存在たりえなくなるはずです。本書の各章のテーマはバラバラに見えますが、私は、すべてのテーマが、いささか抽象的に記したこのまえがきの問題意識に連結していると考え、一冊にまとめることにしました。

あとがき
私にとっての「言葉」とは、いわば「故郷」のようなものです。社会学者A・シュッツは「故郷」について次のように記しています。「ある詩人は〈故郷とは人がそこから出発するところである〉と述べている。またある法律学者によれば〈故郷とはそこを離れているときに帰ろうと思う場所である〉とされる」と(中野卓監修・桜井厚訳『現象学的社会学の応用』お茶の水書房)。
つまり、「故郷」は、出発点であると同時に帰着点でもあることになります。本書においても展開したように、私はこれまでほんとうに多くの「言葉」を発し、また書き記してきました。いわば「口舌の徒」としての私の自分史が、「言葉」を発したり書き記したりするところから出発し、「言葉」を発し、また書き記すところに帰着するという、そのような日常生活のなかで作り上げられてきたといっても決して過言ではありません。
しかし、「言葉」が思想を担い、思想が「言葉」を要求する以上、実際のところをいえば、私の「言葉」に出発点も帰着点もあるはずがないのです。それにもかかわらず、私は常に「故郷」、すなわち出発点および帰着点を求めてきたのです。ありていに言えば、ようやく帰着点に到達したと思っていたらば、それは単なる小さな通過点にしかすぎず、否、通過点でさえもない次なる、または元々の出発点でしかないことを思い知らされるということの繰り返しでありました。いうなれば私の「故郷」は見えているのに見えず、結局、見えているかにみえて実は見えないものを求めていつも彷徨をくりかえしているだけのようにも感じられるのです。せめてこの彷徨がある程度まで弁証法的なものであれば多少は救われるような気もするのですが、七五年の生涯を振り返って、そのような満足感を得たことはあまりありません。
本書は、本来的に私の出発点であり帰着点であるはずの「故郷」、すなわち「言葉」の理解をめざして、この二?三年の間に書き継いできた論考ないし想念から成り立っています。弁解するわけではありませんが、なにせ出発点も帰着点もさだかならぬ彷徨途中の「言葉」論なので、全体としてまとまった仕事になっているとは到底言えません。帰着点にはまだまだ距離があり、というよりも、帰着点があるのかどうかも分からぬままに出発して道に迷っているというところが真相かも知れません。
だが、しかし、出発してしまったことは間違いありません。要するに、「まつすぐな道でさみしい」(種田山頭火)のだけれども、そして、「どうしようもない私が歩いている」(同)のだけれども、できることなら私の歩みは、せめて「また一枚脱ぎ捨てる旅から旅」(同)のようでありたいと念願するものです。浄土真宗の宗祖・親鸞は、実に七〇歳をすぎてから九〇歳での示寂までの間に膨大な著作を遺しました。種田山頭火流にいえば、「分け入つても分け入つても青い山」の心境だったかも知れません。私もまた、一応は出発してしまった以上、帰着点があってもなくても、歩み、そして進み続ける以外にありません。今後、著書という形で物質化できるか否かは不明ですが、「言葉」という「故郷」をめざす心意気に変化はありません。
本書におさめた論考ないし想念の初出を記しておきます。
第1章 言語にとって醜とは何か(『人権教育研究』第二六号、花園大学人権教育研究センター、二〇一八年三月)
第2章 ヘイトスピーチの社会心理学(『人権教育研究』第二七号、花園大学人権教育研究センター、二〇一九年三月)
第3章「国権」対「人権」の言説状況(『人権教育研究』第二三号、花園大学人権教育研究センター、二〇一五年三月、原題は「〈国権Versus人権〉の現況を考える」)
第4章 吃音についての人権論(『人権教育研究』第二五号、花園大学人権教育研究センター、二〇一七年三月)
第5章 在野学から見える社会学の言語表現(礫川全次編『在野学の冒険』批評社、二〇一六年五月、原題は「在野学としての?社会学?」)
第6章 「書く」ということ(『社会臨床雑誌』第二六巻第三号、日本社会臨床学会、二〇一九年三月)
今回も批評社に出版の労をとっていただきました。批評社から出していただいた私の単著の書物が本書で二〇冊(増補改訂の二冊を含む)に到達しました。私の全著書の半分以上を占めることになります。出版不況きわまる状況において、出発はしても到達点が不明な私の作業を助力して下さった批評社に深甚の謝意を表するものです。ありがとうございました。
二〇一九年七月
祇園祭のお囃子を遠くに聞きながら、京都・三条柳馬場の自宅勉強部屋にて
                                    八木 晃介


八木晃介(やぎ・こうすけ)
1944年 京都市に生まれる
1967年 大阪市立大学文学部(社会学専攻)卒業
1967?1991年 毎日新聞記者(千葉支局、東京・大阪両本社学芸部)
1992年 花園大学文学部教授・同学人権教育研究センター所長
2015年 花園大学名誉教授 現在にいたる
[著書]
『親鸞 往還廻向論の社会学』『右傾化する民意と情報操作』『優生思想と健康幻想』『差別論研究』『健康幻想の社会学』『〈差別と人間〉を考える』『〈癒し〉としての差別』『排除と包摂の社会学的研究』『部落差別のソシオロジー』『部落差別論』『現代差別イデオロギー批判』(以上、批評社)、『差別表現の社会学』(法政出版)、『「生きるための解放」論』(三一書房)、『差別意識の社会学』(解放出版社)、『差別の意識構造』(解放出版社)、ほか多数

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