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天皇─誰が日本民族の主人であるか PP選書[Problem&Polemic課題と争点]

  • 蜷川 新(にながわ あらた)
  • 価格 2500+税円
  • 判型:46判、272ページ、並製
  • ISBN 978-4-8265-0697-7
  • 初版発行年月 2019年5月10日
  • 発売日 2019年5月12日

内容紹介文


はじめに

 天皇制について、いろいろの雑誌に、諸家の論文が出ている。私は、深い興味をもって、それらを読んだ。そうして私は、天皇制にかんして、国際法や憲法から、正確な判断をくだすことが、日本民族の民主制を混乱させないために、どれほど緊急事であるかを、痛切に感じたのであった。
 今日になって、日本はその民主制を中止することは、国際法から論じて、とうていできない相談である。なぜならば、日本の民主化は、日本と列国とのあいだの、かたい民族的約束だからである。日本国は、ポツダム宣言の受諾と、サンフランシスコ平和条約の調印という二つの約束をもって、世界のほとんどすべての文明国と、日本の民主化を、かたく約束している。この約束は、日本一国の一方的な意思をもって、それを破ることは、国際法が許さないのである。
 また日本は、新憲法をもって、日本の民主制を立てた。それは、日本人民みずからが、この憲法を定めたのである。人民は、文明人として、それを守る義務がある。民主日本は、過去の君主日本とは、まったく別のものとなったのである。いまの日本人民は、旧時代とことなり、主権の本体となっている。すなわち、日本人民は、旧時代のごとくに天皇の統治下に立つことは、もはや憲法上、ゆるされないのである。憲法は「国の組織」である。組織は、これを守ることが、文明人民の義務である。
このような考えを、私は不断にもっている。それは、人民として、必然にもつべき理想である。私は、日本人として、日本民族の永遠の存在をいのり、さらに、その幸福な、そして健全な存在を願ってやまぬものである。
 私は、法律学を専門とし、とくに憲法および国際法を専攻した。それであるから、まず法理によって、民主を説き、天皇制を論じ、中正の理論を立てて、天皇のためにも、民族のためにも、過ちのないようにと、私は私の心を労しているのである。私は、その目的をもって、この一書をつづったのである。

昭和二十七年八月二十日
大磯、洗心堂にて
八十翁 蜷川 新
私の歩んだ道
(一から一〇まで


一 子供時代の教育と精神

 私は、明治六年に生まれた。そうして七日ののちに、父をうしなった。私は、父親を知らない人間である。
私は、駿河の国(静岡県)の海岸の袖師で生まれた。興津の隣り村である。私は生まれてまもなく、母にいだかれて東京に移った。母の生家は、徳川時代から神田明神下にあった。母の実父、すなわち私の祖父は、播州(兵庫県)林田の旧藩主であったが、まだ生きていたのであった。母は、
その生家の建部家をたよって、東京に出たのである。
 私は、一家が無録移住をした駿河で生まれたのであり、生まれながらにして、逆境におかれた不運な一人間であった。
 当時の東京は、おごれる薩長人をはじめ、各藩から集まりきたった勝利者の占領地となった直後であった。すなわち、革命後の混乱の社会であった。
私の母は、やがて麹町三番町の実弟、坪内家の邸内に移ることになった。私はそこで、十五歳まで、母とともに生活した。私は七歳以後は、当時から有名な番町小学校に学んだが、学問、思想、行動は、先生から模範少年としてほめられていた。ただし、町の人びとには、いたずら者として、市ヶ谷見附から九段にいたる間の人びとからは、憎まれはしなかったが、評判されていた。
 私はそのあいだに、漢学を清田?先生に学び、英語を無名の先生に習い、また特に数学の先生について、代数や算術を学んだ。私の母は、親切に私を養育した。「一大人物となるよう。」にと、母はいつも私をはげました。母は私に、わが家の昔からの歴史を、よく説ききかせた。また、維新当時の事情を、よく話された。
 私が五歳のときに、空中にものすごい帚星があらわれたが、母は深夜、私を庭につれだして、そのおそろしい大きな星を指さし、「あれが、西郷の怨霊だと、みんなは言っている。」と、私にきかせた。私は、まだほんの五歳の子どもであったが、永年、かき消すことのできないほどの強い感じを、そのときに受けた。七十四年をへた今日でも、その大きな、かがやいた彗星とその場面とは、私の眼に映っていて、消えさらない。
 私はある日、母につれられて、小石川の大学植物園へいった。十歳ぐらいの時であったろう。
 母は私にむかって言った。「ここは、蜷川家の下屋敷であった。明治元年三月から十月までのあいだ、一家は二人の旧臣と数人の下男下女とともに、この屋敷に住まっていた。その五月には、彰義隊の敗兵数名がこの屋敷に逃げこんできた。一家は、今夜こそは官軍の刃にかかって、皆殺しにされるだろうと心配もしたが、覚悟もきめた。しかし、敗兵はどこにか去って、一家は無事だった。しかしその後、ある夕刻に、父も母も中二階で夕食をともにしていた時に、山上から、突如、一発の弾丸が飛んできた。その弾丸は、座敷のかもいにあたった。父母は食事をやめて、階下におり、静かに山上のようすをうかがって見たが、なんの異変も見られず、そのままで終った。」と、私に話してきかせた。子供ながらにも私は、それをきいて憤りなきをえなかった。そのときの母の姿と容貌とは、今もなお、私の眼底に残って消えない。
 私は、子供の時代に、三番町に住んでいた清田?という漢学の先生の塾に、毎日かよった。先生は、幕府時代には与力の身分の人で、漢学には深い造詣があった。漢文の著書も数種あった。生徒も、たくさん通っていた。先生は、いつも、維新当時の江戸の実相を私に話しきかされたが、そのなかには、西郷が江戸市中に放った強盗五百人の掠奪事件のくわしい話もあった。与力は、幕府の警察官として、強盗押入りの知らせがあれば、ただちに隊を組んで、その捕縛にむかって、挺身するのであった。人民の財産を強掠するのが西郷らの仕事であって、幕府を攻めるのでもなく、市内に反乱をおこさせるのでもなかったことを、いつも先生は、くわしく私に話された。彼らには、なんらの道義心のなかったことを、力強く私に話されるのであった。正義心にもえていた少年の私は、子供のときから、彼ら政争者の残虐非道をにくまずにはいられなかった。
 私は、その時代からすでに、レジスタンス式の精神を、うえつけられていたのである。私は、張良が秦の始皇帝を、挺身襲撃した古事を、漢学によって学び、張良の強く正しい意気を、深く敬慕していたものであった。後年にも、私はその絵を床の間にかけて、観賞するのをたのしみとしている。

二 高等学校と大学時代の私

 私は、自分でかってに、自分の方向をきめて進んだ。私は、はじめは、海軍に身を投じて、海国日本のために一生をささげようと考えた。しかし、一度、兵学校の体格試験を受けたところが、「虫歯が一本多い。」というので、はじめからはねられた。私は、そこで、海軍を見かぎった。そうして私は、東京大学に学ぶことに方針をかえた。
 私は、明治二十二年に、第一高等学校に入学した。私は仏文科にはいり、将来は外交官となることを決心した。私は、英雄の伝を読みふけった。友とともに暴飲もやった。先生にもたびたび反抗した。教場で、ときどき、神道を説く文学士の先生を、公然、教場でからかったりした。王朝文学を講ずる文学士の先生にむかって、和文の気力のないことを、公然、非難したりした。先生からは、「君はだめだ。」といわれ、取りあわれないこともあった。それは有名な落合直文先生であった。私は、フランス語は大いに学んだ。フランス大使館の通訳官とも交わった。私は学校の長い休暇には、各地を旅行した。その旅行の仲間で、後年には日本のために大いにつくした友人が数名いた。内閣にはいった渡辺千冬、世界的の学者となった農博、鈴木梅太郎、京城大学の総長だの李王職長官だのになった法博、篠田治策だのが、それである。私は、高等学校の例の祝祭日の日に、興に乗じて、朝から酒を飲みすごし、夕方の四時には、まったく体が動けなくなって、あの広い彌生ヶ丘の運動場の上にたおれ、友にたすけられて寄宿寮に運びこまれたこともあった。
 私の行為について、母はさだめし、その心のなかで憂えていたことであろう。しかし、なにごとも言わずに、母は私のなすにまかしていた。母の恩は、後年になってから、しみじみと私の胸を打ち、まことに相すまなかったという悔悟を、生ぜしめてやまないのである。私は、生来、自由を愛した。自由に学生時代を送ったのであった。詩吟が大好きであった。

三 一年志願兵として入隊

 私は、大学を卒業したならば、ただちに外交官となって、世界じゅうを飛びまわろうと考えていた。そこで、高等学校を卒業するや、軍隊にはいり、軍事をいちおう心得て、後年の外交官としての活躍のための参考としようという決心をもった。私の友は、私を、もの好きだと笑った。私は、ひとりで身の方向をきめた。私は一年志願兵として、近衛第四連隊に入営した。明治二十九年十二月のことであった。それは、日清戦争直後のことであった。
 軍隊では、傲慢で低級な下士官や上等兵に、そうとうににくまれた。あるときは、下志津原の遠いバラックに連れてゆかれ、闇打ちをくらう直前までいったこともあった。だが、私の正論に、彼らは圧せられて、たくみに私はその場を切りぬけた。私は幸いにして難をまぬがれ、自分のバラックに帰ることができた。連隊長や大隊長らには、私は大きな信頼を受けていた。
 あるとき、黒木近衛師団長の検閲がおこなわれた。私はひとり、青山練兵場に引きだされた。師団長はじめ参謀らがならんでいた。一人の大尉は私の前に立ち、「服従の定則をのべてみよ。」と命じた。私は、形のとおり静かに答えた。ついで、その大尉は、「どんな命令にも服従するか。」と、重ねてたずねた。私は、「天皇の命は正しいと信ずる。それゆえに、服従する。不正の命令には、私は断じて服従しない。」と、厳然として答えた。その大尉は私を叱って、「それは、服従の定則に反するではないか。」と責めるがごとくに、私に問うた。私は、「それは、正しい見解でない。」と、頑として強弁した。それで私にたいする試験はおわったが、その夕刻にその大尉は、「君! じつはみんなで協議したうえ、君にあの質問を発して、おもしろい場面を展開し、師団長に披露しようという芝居であったのだ。」といった。
 私は、連隊でよい経験をつんだ。そうして、私の体格は、ひじょうに堅実のものとなった。私は、一年と三ヵ月を隊中にくらした。そうして少尉となって、ふたたび自由の学生となって、大学に学ぶ身となった。母はだいぶに老いの身となっていたが、大いによろこばれた。

四 東京大学入学とその以後

 私は、東京大学の法律科に入学した。そうして、主としてフランス語と、国際法とを学んだ。学生時代に、私は、ルノールの有名な国際法を翻訳して出版した。フランス語の力をつけるためであった。私はいく人かの学友とともに、演説の講習会をつくって、大学の大教室で演説の練習をやった。その仲間には、後年に有名となった人がいる。長島隆二、小川郷太郎、渡辺千冬、中川健蔵らが、それである。スイス人の教師ブリデルには、私は大いに信用された。民法の講義を受けたが、私は、そのフランス語の講義を、大した誤りもなく筆記しうるようになった。私は、外人で日本を訪れる人のために、通訳となって日光の案内をやったこともあった。外人を理解することが、私の目的であった。私はそれによって、得るところは多かった。
 私は、明治三十四年に法科大学を卒業した。まず自身で大蔵省に行って、就職を求めてみた。係官の一書記官は、その机の上に準備してあった「大学卒業生の成績表」と私とを対照し、私と少しばかり話をまじえたが、私にむかって採用を約束された。私は関税課の勤務となった。その課長は有名な目賀田種太郎氏であった。私にむかって、「そのうちに、在外財務官が設置されることになっている。君をそのほうに当てる予定である。」といった。私は、目賀田氏の人物に非凡のところがあるのをみとめて、唯々として、その命にしたがっていた。あるときは、えらく叱られたこともあった。
 私は、ひそかに外交官試験を受けてみた。試験官は書記官石井菊次郎氏であったが、フランス文の書いてある一枚の紙を私に渡した。それを読んでみろと言われた。私はすらすらと読んだ。石井氏は、「どういう意味か。」と私に問われた。私は、「わからない。」と答えた。「なぜか。」と問われた。私は、「フランス文の文字が、二つ私にわからないのがある。それで意味が取れないのである。」と答えた。石井氏は、「教えてやろう。」と言われた。私は、「試験場に出てきて、知らない文字を教えられては、私の不名誉である。」と、キッパリと答えた。石井氏は少しく怒気をふくんで、「それならば、もうよろしい。」と言われた。私はそれで、試験は落第ときまった。私は、それも運命だと思った。私は、官吏は私にはむかないと考えた。そこで、大蔵省も辞職した。目賀田氏は、私をその邸にまねいて、「思い止まれ。」といわれたが、私は固くことわった。明治三十五年のことである。
 私は、みずから読売新聞社に行って、臨時の記者に採用された。私は大いに政治を論じた。岳南のペンネームで書いたが、自由で、はなはだ愉快であった。やがて渡辺国武子爵は、伊藤内閣の大蔵大臣を辞し、あらたに新聞を発行されることになった。私は渡辺子爵をかねて知っていた。そこで、その新聞に転ずることになった。電報新聞といった。私は社に宿泊して、新聞事業に身を投じた。その当時、私は大学院の学生に席をおき、将来は自由な学者になることを志していた。明治三十六年のことである。
 その当時は、日露間には不穏の事態があらわれ、有名な七博士は、率先して開戦を叫んだ。私もその一味の応援者であった。私は開戦を論じていた。明治三十七年の二月に、開戦の宣言は発せられた。同時に、旅順港の襲撃がおこなわれた。私は、予備の陸軍少尉であったところから、ただちに召集されて、軍隊の人間となった。私は第一軍司令部附の国際法顧問を命ぜられて、黒木司令官らとともに、宇品から出発し、大同江をさかのぼり、平壤についた。その以後は、国際法上の違反がおこらないように、私は軍司令部参謀にやかましい意見をのべ、満一ヵ年を、満州の戦場におくったのであった。
 明治三十八年三月、私は陸軍省の命令により、名古屋の俘虜収容所附に転じた。旅順で勇戦した有名な将官らが、名古屋にいた。私はその取締りにむけられたのである。私は俘虜から敬愛された。そこにいること三ヵ月であったが、俘虜は私に大いに感謝した。当時の日記は、私の手もとに保存してある。人類愛の実行であった。私は交際社会で大いにもてたのも一つ話である。
 同年七月私は、新設された樺太軍の国際法顧問にされた。樺太の占領にかんして、私は大いに人類のために働いた。その事業は、意義の大きいものであったが、詳細はここにははぶく。ポーツマスの平和条約が成立して、樺太軍の大部分は日本に帰ったが、私は一箇連隊とともに残された。樺太引き渡しの事業にあたることになった。いっさいの談判は、私ひとりでおこなった。これもまた意義の大きな外交事務であった。当時の記録を私は保存している。日本の占領していた北部樺太の引き渡しは終了した。無事にすんだのを陸軍大臣らは大いによろこんだ。
 私は、十一月日本に帰ったが、陸軍大臣は、私に旅順にいって、「外人の遺留財産の整理委員」となるように命じた。私は、それを引き受けて旅順にいった。この事業は、全満州における外国人の遺留した動産不動産を、整理することであったが、そこに私は、一年三ヵ月のあいだ留まっていた。その事業のなかには、撫順の大炭坑を、ロシア人とシナ人に還附すべしという請願事件もあった。それは、ポーツマス条約のなかに、ロシアのために有利な条文が挿入してあったところから生じた一大事件であった。私はその問題を、ロシア人と毎日、談判した。ついに日本のために有利に解決したのであったが、それは、私としては大事業であった。
 私は、その任務を終了して日本に帰った。明治四十年三月のことである。それから私は、韓国政府の官吏となることになった。目賀田顧問のもとに、経理の事業をおこなう任務であった。まもなく韓国は、イギリスの支援をもって日本の保護国となった。それ以来、私は韓国宮内府に入り、宮中の一大改革をおこなう任務をあたえられた。私は大胆に、宮中の大粛正をおこなった。この時代に、多年、李太王の寵人であり、顧問であり、韓国の外交を一女子の身をもって引きずり廻していたフランス人ゾンタク夫人と、私は最初は大いに抗争して、その専恣を押えた。しかし、私は伊藤統監から命ぜられて、その夫人と和睦した。そうして日本の外交を勝利にみちびいたのであった。
 韓国にあること六年であったが、伏魔殿といわれた宮中は、まったく粛清された。李太王は相当の人物であったが、私には一目をおいていた。私は目的を達して、いさぎよく官を辞したが、李太王は寺内総督に人を派し、「あと二年だけ蜷川を留任せしめたい。」と申し入れられた。私は固くことわったが、李太王の策略であったかとも思われた。
 私は大正元年十月に、京城において文部大臣から学位を授けられた。私はこれを機会として、事務の人間から学界の人間へと一転した。そうして私は、大正二年三月をもって、ウラジオストックに渡航した。そこからモスコウに向かった。そうしてパリーにゆき、専門の学問に志した。ついでに私は、全ヨーロッパを旅行した。私は大正三年九月に日本に帰った。
 私は、明治三十七年二月以後、大正二年三月にいたるまでの十年余の歳月は、極東において、日本民族の自保自存のために、一身をささげて働いていたものである。私には地位や収入など、まったく眼中になかった。予備の一中尉として、あるいは一嘱託として、あるいは韓国の一小官吏として働いたのであったが、私には、眼中に長官はなく、自由な一人間として、日本民族の光栄と自由とのために奮闘した。私の基本とする原則は、国際法であり、人類の福祉であった。私は、ロシア人の生命も相当に救った。シナ人、朝鮮人の生命や財産も保護した。日露の戦中また戦後の対外政策の一端に、私はあずかっていたけれども、私のなしたことは、けっして侵略ではなかった。侵略への反抗であった。私と接したすべての外国人は、私の誠意をみとめて、いずれも感謝してくれた。私は、民族の自由と平等とを、第一義として働いたのであった。(一?四まで了、五?一〇の続編は本をご購読下さい。)


底本の著者紹介より]
蜷川新氏は、明治六年、駿河国袖師(静岡県興津の西隣)に生まれた。ただちに出京、麹町区三番町で育った。
東京大学法学部卒業、同大学院に入り、論文提出、博士の学位を受けた(大正元年)。下級官吏、記者、嘱託、会社重役、同志社および駒沢大学教授、日本赤十字社顧問、ジュネーヴの赤十字社連盟理事などを勤めた。
欧米外遊四回、中国、朝鮮、タイにも要務をおびて行った。朝鮮には七年間、滞在した。
国際会議には、ヴェルサイユ、ジュネーヴ、カンヌ、バンコック、東京などで列席した。著書は、『日本憲法とグナイスト談話』『列強の外交政策』『ビスマルク』
『維新前後の政争と小栗上野の死』などのほか、国際法、憲法、歴史に関するもの、大小数十種ある。仏文の著書ではLa Croix-Rouge et la Paix.,La reclamation japonaise et le droit international.英文ではCritical observation on the Washington Conference.

目次

凡例 2

  はじめに 3

一 今日の天皇の地位 11

1 太平洋戦争と天皇 12
2 天皇退位の問題 21
3 敗戦と天皇の立場 26
4 敵国の日本占領と天皇 30
5 日本の新憲法と天皇 34
憲法第一条と天皇の地位/人間天皇と憲法/天皇の地位の曲解

二 明治憲法と天皇の権力 49

1 明治初年の天皇と世論 50
2 伊藤博文の欧州派遣 58
3 グナイストの教えた憲法 70
4 権力の神となった天皇 73

三 歴史のなかの天皇 83

1 神武から仏教渡来までの天皇 84
2 蘇我氏の主権時代 94
3 天智の権力獲得 107
4 日本の主権はどう移ったか

四 維新と朝廷派 127

1 維新の目的はなんであったか 128
2 勤王学派の論理 135
3 公卿の収賄と策謀 141
4 鳥羽伏見の乱と朝廷派 148
5 王政維新と思想の混乱 154
6 王政維新と人民 161
7 「万機公論」の抹殺 167
8 維新以後の反民主性 173

五 天皇制の批判 179

1 昔の学者の自由な天皇論 180
林羅山の開か いか化天皇論/新井白石の仁にんとく徳天皇論/頼山陽の天皇制論/斎藤竹堂の
天智天皇論/斎藤竹堂の弘文天皇論

2 外国人の観た天皇 191
米国軍人の天皇観/哲学者デューイの天皇制論/米国文化人の天皇論

六 天皇の将来 207

1 天皇制の考え方 208
2 世界への四つの約束 215
3 皇位継承の問題 218
4 世界の大勢と天皇の将来 224

私の歩んだ道

一  子供時代の教育と精神 252

二  高等学校と大学時代の私 255

三  一年志願兵として入隊 256

四  東京大学入学とその以後 257

五  学界入りについで再渡欧 263

六  シナおよびシャムへの旅行 266

七  ワシントン会議行きと私 266

八  数年にわたる国内の講演 267

九  国際連盟から脱退した日本人 268

一〇 国際連盟脱退以後の歩み 269

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