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「精神医療」92号 特集=拘束

  • 阿保順子+中島 直・責任編集
  • 価格 1700+税円
  • 判型:B5判、128ページ、並製
  • ISBN 978-4-8265-0688-5
  • 初版発行年月 2018年10月10日
  • 発売日 2018年10月12日

内容紹介文

巻頭言

拘束と医療
阿保順子(北海道医療大学)


はじめに

ここ数年の日本社会は、目の前の不快な現象を前に立ちすくみ、それ以上考えることをやめてしまったかのようだ。7月には西日本豪雨災害があり、凄惨な現場に猛暑が襲い掛かった。気象庁が大雨による避難を呼びかけていたにもかかわらず、首相や自民党の国会議員らは、その夜に宴会をしていたという。そして被害が続いている最中に、IR実施法案の今国会での成立を目指すべく、国交相が参院内閣委員会でカジノを設ける意義について説明していたという。こんな状態でも現首相の支持率はそれほど下がらないのだろう。なぜなのだろうか。
この10年間で身体拘束は2倍に増えている。一般病院、精神病院ともに認知症の患者さんが急増していることとも関連しているだろうが、それだけとは言いがたいように思う。拘束ゼロ運動や行動制限最小化委員会の設置、高齢者虐待防止法にいたるまで、患者さんの人権を守る運動や法整備などが行われてきたにもかかわらず、そうした現象が起こっていることは何ゆえであろうか。「わからない」と言って放ってはおけない問題である。
拘束は隔離よりはるかに多い。もちろん隔離のための空間は限られている。拘束は治療を含む患者さんの安全を担保する最後の手段であると考えられているからである。また、拘束として捉えられる行為が多様だからでもある。究極的には、入院や治療も拘束であるという言い方はできる。入院、特に精神科病院における措置入院や医療保護入院がそれに当たるし、治療では外科的療法や薬物治療、精神領域でも薬物療法をはじめ心理療法やECTもその例であると言えよう。つまり、拘束は、表層的な物理的身体の救済とその救済方法のあり方、こころとからだが一体であるところの人間の身体の救済とその人間の権利であるところの尊厳の侵害という、相反するかに見える問題を孕んでいる。本特集は、ややもすれば物理的身体あるいは表層的身体の拘束と単純に受け止められやすい「身体拘束」に限定しなかった。拘束の持つ意味の広がりと深さ、孕む問題の多様性を考慮して、その意味と実態を見ようとしたからである。


拘束にからむ事件

拘束にからむ事件は、なくなったかと思いきやムクムクと起き上がってくるように発生している。2003年の一宮身体拘束事件は、急性期病院における身体拘束に対する訴えである。これに対する名古屋高裁における判決は、医療機関での患者の身体拘束の違法性を初めて認めたものであった。しかし、その後、最高裁においてはあっさり退けられた。腎不全があり利尿剤を服用していた上、80歳の高齢にもかかわらずベンゾジアゼピン系催眠剤を10ミリも服用していた患者さんの身体拘束問題であった。患者さんは、変形性脊椎症のためか腰痛があって入院し、おむつの汚染を繰り返し訴えてベッドから降りて車いすに移ろうとするなどせん妄状態であると判断されて拘束された。3人の看護師で個室に移動させ、腰痛のある患者さんを仰臥させ、手にはミトンをはめ、両脇のベッド?に縛り付けた。利尿剤の服用に残尿感とおむつの不快感があったものと推定されるうえ、催眠剤の追加服薬でフラフラ状態であったはずである。看護師が繰り返し対応して落ち着かせようとしたが、女性は意識混濁状態でベッドから転落したり転倒する危険性が極めて高かったこと(切迫した状況があった)、深夜に長時間、看護師が付きっ切りで対応するのは困難であることなどが認定された形になった。だが、実際はその夜OP患者もおらず、24時間点滴をしている人がいるのみだった。そのほか、身体拘束に替わる方法がなかったこと、つまり非代替性が、約2時間という必要最小限の拘束であったこと、つまり一時性が認められた。だから、不法行為と断ずるまでには当たらないという。筆者は司法に関しては全くの素人ではあるが、これが最高裁での判決文であること自体にも頭をかしげてしまう。最高裁は事実認定を行うところではないはずだと。
2008年には大阪府内の精神科病院における身体拘束中の事故があった。拘束帯によって身体拘束された患者さんがベッドからずり落ちたことから、腹部の圧迫による腸管壊死と腹膜炎で亡くなった。2017年にはニュージーランド男性の措置入院中の身体拘束による死亡事故が発生している。この事故を契機に身体拘束が現代社会における問題としてクローズアップされた。また、今年2018年5月には、上記事件と同じ2008年当時14歳だった女性が、摂食障害によって77日間身体拘束されたことへの訴えを起こした。さらにこの8月には、2016年に身体拘束によるエコノミークラス症候群で死亡した男性の両親が精神科病院を提訴している。逆に、看護師が「抑制帯を用いて拘束するのも必要やむを得ない事情があった」が「抑制帯を用いることがなかった」として病院側の責任を認めたという訴訟もあった1)。拘束することによる死亡事故が訴訟になっている。
一方で、拘束しなかったことによる事故の裁判も存在しているのである。人権の問題、法律の問題、治療の問題、医療者の仕事の範囲や意図や目的など、拘束の問題にはさまざまな側面からの考察が必要とされる所以である。

拘束を規制する制度

拘束ゼロ運動により「身体拘束ゼロへの手引き」が厚生労働省分科会から出されたのは2001年である。その2年前には介護老人保健施設における拘束について、緊急処置として一時性・非代替性・切迫性の3条件を満たすことを要件とするという厚生省令が出された。だが、省令には法のような縛りはない。その後2006年の高齢者虐待防止法により、介護保険関係施設での拘束は少なくなっているはずである。しかし、今年3月には、高齢者の虐待による被害が10年連続で増えていることが報じられた。特定された被害者の7割近くが暴力や身体拘束などの「身体的虐待」だという。サービスの利用者が増えたことや相談件数が増えていることからではないかとの理由も考えられてはいるが、法律を作るだけでは拘束問題は解決しないことを物語っているようである。ましてや、医療保険が適用とされる病院は、精神保健福祉法の規定を除き、身体拘束原則禁止の規定はなく、虐待防止法の対象外である。最高裁で逆転敗訴となった一宮身体拘束事件はそんな状況での出来事であった。
一方、精神科病院での拘束は、特別法である精神保健福祉法で、隔離・通信・面会を含めた「行動の制限」に位置付けられている。精神保健指定医が必要と認める場合でなければ行うことはできない。精神科医であれば誰でもできるという安易なものではない(精神保健福祉法37条)。1998年の国立療養所犀潟病院での看護師による拘束で患者さんが窒息死した事件をきっかけに、2002年の厚生労働科学研究班の提言を受けて、2年後には行動制限最小化委員会が設けられることになった。しかし、前述したように、拘束による事件は後を絶たないばかりか増加しているのである。

拘束に関する議論

精神科救急医療の浸透に伴う強制入院の増加(措置入院・医療保護入院)は確かに考えられる。また、認知症の高齢者が増え、精神科病院は彼らの受け皿になっていることも起因している。認知症の人たちを在宅でみている家族たちは、激しいBPSDに対応しきれず精神科病院に頼らざるを得ないという状況がある。また、老人福祉施設では、拘束が制限されているゆえにやむを得ず「拘束が必要なら病院へ」といったことも一部ではあるのかもしれない。さらに高齢者の身体合併症の治療に伴うせん妄の多さは周知のとおりである。状況が拘束を増加させている側面も存在する。状況を変えることなしに拘束はなくならないということであろうか。変化する状況の分析に終始してしまえば、その間、現場では拘束が潜行したまま無意識的に容認されていく。
それゆえ、拘束問題は、現実と理想の葛藤の観点から「拘束をしないため」にはどうしたらいいのか、という「方法」に焦点をあてた議論が多くなる。拘束を必要とするような患者さんは入院させないなどは論外であるが、精神病急性期ならば早目のmECTの実施をする、精神科看護基準を引き上げて看護師の数を増やすという方法もある。だが、どうしたらそのような方法をとることができるのかといった議論へと拡散してしまう傾向があることは否めない。一方では、「拘束しないことの弊害」として自傷他害に関する議論がある。被害?加害関係というのは単純ではない。医療者や病棟の他の患者さんが傷つけられることも考えなくてはならない。だが、患者さんを入院させている病院側の強大な力というものを無視して語ることもまた誤りであろう。
さらには、急性期治療の仕方や薬物療法といった治療の中身に踏み込み、精神科治療学へと議論が拡散することもある。そこでは、医学治療のチャート化の問題に集約されてしまう危険もあるだろう。現実的に、薬物の力なしに精神病の治療は不可能だし、認知症の周辺症状のいくつかには薬物が功を奏し、ケアを助けてくれることはある。だが、薬物もその他の治療方法も、病像や病期、全身状態に従って一人ひとり異なるはずである。拘束はすべてに必要なわけではない。要はマニュアルの運用の問題、あるいはルーチンでの拘束というところに落ちがついてしまいがちである。
看護学においては、拘束自体の問題ではなく拘束した後の問題、つまり拘束の是非に口を差しはさむことなく、「現にあること」の上に立った看護の方法についての議論が多い。暴力に対する包括的暴力防止プログラム(CVPPP)同様、技術としての精度をいかに上げるのかという方向性である。もちろんテクニカルな精度だけではなく予防も含まれもするが。現実的には患者さんの安全を考えれば拘束せざるを得ない。できるだけ安全に、拘束によるリスクを減らすことに焦点化される。看護技術のテキストには、「抑制」という用語で拘束が記述されている。精神看護学のテキストでは行動制限の一つとして記載されている。看護の基礎学である看護技術の中に「抑制」という項目がいまだに存在しているのである。地団太を踏む思いである。さらに、身体拘束は精神看護技術として教授され、その教授方法の工夫の結果が研究論文として発表されているのである2)。
看護は積極的に定義しようとすれば茫漠としたものになってしまうが、消極的に否定形で示すことはできる。いわば、「そうではない」という意味での「非」という形で示すことはできる。非侵入的・非侵襲的・非効率的(手間暇かける)である3)。非という看護のあり方からすれば、拘束は看護の技術ではない4)。看護の基礎学自体の見直しを迫る問題だと筆者は考えている。だが、そういう議論にはなっていかない。拘束された場合の看護の方法に終始してしまう。こうした議論のされ方は、得てして拘束それ自体の問題性を見えにくくしてしまう。
議論になりにくい課題として、医療従事者の意識の問題がある。それに関する議論は、医療行為や看護行為のマニュアル化と同じ帰結を生むだけかもしれない。「考える」ことをスルーしてマニュアル通りに動くことが医療者の仕事の仕方になってはいないか。医療は、人間の命を救い安寧をもたらすものであって、命を奪ったり傷つけるものではない。医療者の行為はそこから出ているはずである。医療従事者の拘束に対する意識の空白があるのかもしれないという疑念にもとらわれるのである。医師も看護師も、そしてソーシャルワーカーも作業療法士も心理療法士も、それぞれが拠って立つ専門性の観点から自らの仕事を考えれば、拘束という事態は少なくなるように思わないではない。そんな議論もあるいは必要かもしれない。
いずれにしろ本特集は、拘束問題をさまざまな側面から議論できることを目指した。
この取り組みが、議論の深まりを促し、拘束という言葉がいつか医療から消えていく日がくることを願う。

[引用文献]
1)奥津康祐:看護師による身体拘束に関する最高裁平成22年1月26日判決以降の民事裁判例動向 日本看護倫理学会誌 61-67 6 (1) 2014
2)清水健史、坂本祐子、成田博幸、伊藤治幸、藤井博英:シナリオに基づいたデモンストレーションを取り入れた精神看護技術「身体拘束患者の看護」の学習結果 青森県立保健大学雑誌 17-223 10 (2) 2009
3)阿保順子:「非」と「安楽」─看護技術教育における「可」の姿 看護教育 28-34 57 (1) 2016
4)阿保順子:技術ではあっても看護技術でないもの─抑制 看護教育 394-399 2017
[参考文献]
1)長谷川利夫:精神科医療の隔離・身体拘束 日本評論社 2013
3)竹田壽子:看護と身体拘束 三惠社 2015

【編集後記】

精神科医療・保健・福祉(以下単に精神科医療とする)が真に目指すべきものは何か。相模原事件を契機とし、措置入院の「退院後支援」等が議論され、その中で精神科医療の目的は社会防衛ではないということが繰り返し主張され、政府にも一応受け入れられた。
 精神科医療の目的は「患者の利益」だとする。しかしこれも実は漠然としている。「患」とは、パーソナリティ障害、非合法薬物への依存症、病的窃盗の人なども含むのか。こうした人も少なくとも一部の専門家は治療対象としている。しかし、こうした人の一部を「精神病」とは分けて完全責任能力などとすることが刑事精神鑑定の機能の一つでもある。「患者」という概念は一意ではない。
 「利益」も同様である。強制入院や隔離・拘束などの行動制限の多くは、少なくとも患者の表面的な願望に反している。認知症高齢者への抗精神病薬治療は平均余命を短くすると言われている。
一方、社会防衛は目的ではないかもしれないが、治療の結果として果たされ、それが結果としては患者の利益と一致することもしばしばある。
 社会の中での活動は社会と無縁ではいられない。精神科医療も社会の期待に常に翻弄される。社会の期待というのは必ずしも明確ではないが、公に語られる言説はしばしばきわめて差別的である。従事者は、こうしたものに抗いつつ、自らの差別意識とも闘いながら、自分の依って立つ基盤を作っていかなければならない。
 さて今回の特集は拘束である。拘束には上記のような問題がきわめて高密度に集約されている。この人を拘束するとき、しないとき、どんな判断が根底にあるのか。それが社会の差別意識の影響を受けているときに、どのような言動が行い得るのか。
 そして、もっと低いレベルでの拘束がなされているのではないか、との指摘がなされている。こうしたものをどのようになくしていけるのか。これは精神科医療の改革運動がずっと抱えてきた問題とも重なる。 (中島 直)

目次

【目次】

巻頭言
拘束と医療
…………………………………………………………………………………………………
阿保順子 003

座談会 精神科病院における拘束
……………………………………長谷川利夫+岡崎伸郎+阿保順子+[司会]中島 直  010

患者中心の精神医療をめざして…………………………………………………………………
加藤真規子 032

隔離・拘束を最小化するための4つの視点
…………………………………………………………………………………………………
竹端 寛 039

拘束と実践………………………………………………………………
中島 直 048

高度急性期医療の場での抑制しない看護へのチャレンジ
…………………………………………………………………………………
小藤幹恵 056

身体拘束を限りなくゼロに近づけるために
―介護・福祉の視点から…………………………………………………………………
石川秀也 064

拘束
―迷う判断と目標のあり方……………………………………………………有本慶子 072

コラム+連載+書評

視点―53 入院患者の権利を守るために、本当に必要なこと
―日精協「アドボケーターガイドライン」のまやかしを越えて…………………原 昌平 081

連載 異域の花咲くほとりに―8
精神療法と精神分析について
……………………………………………………………………………………………菊池 孝 088

連載 経症への一視角―5
神経症から不安障害へ
―当事者の視点から疾患概念を再考する… …………………………………………………
上野豪志 096

連載―4
精神現象論の展開(4)
……………………………………………………………………………………………………
森山公夫 103

コラム クライエントの希望に沿った支援を継続するために
…………………………………………………………………………………………………
知名純子 111

書評 『あたらしい狂気の歴史―精神病理の哲学』
小泉義之著[青土社刊]………………………………………………………………………… 浅野弘毅?119

紹介 『保安処分構想と医療観察法体制―日本精神保健福祉士協会の関わりをめぐって』
桶澤吉彦著[生活書院刊]………………………………………………………………………
高木俊介 123

編集後記…………………………………………………………………………………………… 中島 直 128

次号予告………………………………………… 122
バックナンバーのご案内………………………… 125

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