TOP 歴史のなかの闇を探る 東国武士政権◎日記「玉葉」が捉えた鎌倉幕府の展開と、悲劇の武士たち

東国武士政権◎日記「玉葉」が捉えた鎌倉幕府の展開と、悲劇の武士たち

  • 安達史人著
  • 価格 3000円+税円
  • 判型:46判、384ページ、並製
  • ISBN 978-4-8265-0685-4
  • 初版発行年月 2018年9月25日
  • 発売日 2018年9月28日

内容紹介文

東国武士政権─日記「玉葉」が捉えた鎌倉幕府の展開と、悲劇の武士たち

「鎌倉幕府」はだれが作ったのか?

平治の乱で敗者となり、伊豆の流人であった源頼朝を将軍として、東国の豪族武士たちが結集し、東国政権を構築したという「日本史的常識」はそのまま容認していいのだろうか。関東武士の多くが平氏であり、源氏の、嫡流とはいえ頼朝を担いで反平氏的イデオロギーを実践したという伝承を、同時代の貴族政治家、九条兼実の日記「玉葉」を解読、分析することで「歴史的事実」を明らかにする!

はじめに―――東国武士や幕府に関する「歴史」と「伝承」を巡って
鎌倉幕府は、実際はどのようにして成立したのだろうか。「吾妻鏡」が書くように、頼朝が中心になって坂東武士たちを集結させ、清盛死後、貴族化した一族の平氏たちを討伐して作られたという、もうだれも疑問を持たない領域に関心を持つようになったのは、一の谷、屋島、壇ノ浦でのいわゆる「源平合戦」と通称されている三度の戦争に、西へ西へと移動、逃走する平家軍に、源義経や源範頼の率いる関東軍が勝利したあと、鎌倉にひとつの政権が形成されたという通説がかなりの程度に杜撰に過ぎなくないかという疑問を感じるようになったからだ。雑誌「游魚」三号(木の聲舎、二〇一五年)に、わたしがなぜその通説に疑問を抱くようになったのかということや、わたしの日本中世史研究の出発点の素朴なありようを、ふたりの女性の友人にメールし、貰った返事をすべて掲載するという方法で展開してみた(「日本中世史論のためのスケッチ─愛発が関通信─」「鎌倉幕府を作ったのは源頼朝ではないよ!」(協力=石井浩子+掛井育)。
●わたしの抱いた疑問はおいおい述べていくが、上記の文章のなかでは、頼朝の挙兵と通称されているのだが、じつは情けない挙兵(相模の山木判官を殺したが、すぐに親京都派の大庭景親に敗北し、三浦半島から千葉方面へと逃走した)のあと、房総半島の上総の介広常や下総の千葉常胤らの強力な支援を得、かつ武蔵、相模の国の豪族武士たち、三浦氏や和田氏や畠山氏らの協力によって、鎌倉の地に幕府を開いたという通説の協力者たちが、すべて実は平氏系の人びとであったこと(つまり、源平戦争とはよべず、平平戦争だったのだ)、あるいは、房総や武蔵の国々の平氏系の武士たちが源氏の流人であり逃亡者であった頼朝をなぜ支援したのか、という点にまずはあった。もし[源氏]の頼朝を[平氏]の坂東武士たちが支援したとするならそれはどうしてだったのか。
児玉幸多編『日本史年表・地図』(吉川弘文館、一九九五年)によれば、関東に土着した武士たちのほぼ七〇パーセント近くが平氏で、残りは秀郷流藤原氏(平将門を追討した藤原秀郷の子孫たちとされる)と、その他の諸氏族であり、千葉の武士たちも武蔵武士たちもほとんどが平氏に属していたのだ。関東東部や甲斐などに源氏は少しだけ存在した。常陸に佐竹氏という源氏がいたが、平家との富士川の戦いのあと、すぐにも大軍を率いて上洛しようとした頼朝は、三浦氏や和田氏ら、のちの幕府の重鎮となる武士たちから、上洛して平家を討つまえにまずは関東を固めるべしとか言われて、その佐竹氏を討滅している(「吾妻鏡」)。頼朝が幕府のなかでの少数派の源氏だとすれば、当然、源氏の佐竹氏と連合し、甲斐源氏も引きこんで、関東グループのなかに源氏主導軍を構築するのが当然ではなかったか。
●と、考える以前に、十三、四歳で伊豆の流人になり、二十年余を伊豆で過ごしていたという頼朝を、なぜ彼が間違いなく、平治の乱で敗れて殺された源氏の棟梁、源義朝の息子であることを、坂東武士たちはどのようにして承認し得たのか。説話論的に言うと、源氏嫡流秘伝の剣を所持していた、とか、自己証明するなにかがなければ、だれも信用しなかったのではないだろうか(古活字本「平治物語」には、髭切(ひげきり)という剣が出てくるが、自己証明のために使われたとは書かれていない)。「平治物語」は、敗れた義朝の死や、頼朝の流罪を書いたが、十三、四歳だった少年頼朝を、伊豆のだれが成長するまで監視し、かつ面倒を見たのか、まったく書いていない。岩波古典文学大系の金刀比羅宮蔵本「平治物語」では、最後の行に、頼朝を連れて来た朝廷の官人が《さるほどに、伊豆国蛭が嶋におきたてまつり、伊東、北条に守護したてまつるべきよし申しおき、官人都へのぼりけり》とあり、朝廷の役人が連れて来て、この地の豪族伊東氏、北条氏に守護するよう命令したように書かれているが、流布本「平家物語」ではそのような記述はない。
●「吾妻鏡」に、頼朝の乳母であった比企の尼が、長年、経済的援助を続けてきたと書かれているのだが、頼朝の乳母を寒河尼と書いている研究書もあり、すぐになっとくし難いものがある。とりわけ「吾妻鏡」は幕府成立から五、六十年後に、幕府を仕切っていた北条氏によって書かれたものであり、とくに頼朝を描いている前半部は、頼朝の美化と重要人物化が謀られており、わたしはこの経過を[頼朝伝承]とよんでいる。歴史に再登場した初期の頼朝は、「平家物語」や貴族の日記などをもとに、かなりの程度に造形されているのではないか、と考えられ、この文章では極力、「吾妻鏡」を参照せず、源氏と平氏の抗争を、同時代に書いていた京都貴族政治家の九条兼実の眼に映った板東勢の動向を捉えることをめざして、かれの書いた日記「玉葉」を読むことにしたのである。
●もうひとつの疑問は、われらが英雄義経に関してである。義経は幼・少時以降の歴史を「伝承」のなかでしか確立できない人物なのである。かれもまた、頼朝同様、自分が義朝の最後の息子であることを、たとえば青年時代に寄寓したという奥州藤原氏にたいして、どのように証明できたのか。ある若い男が突然やってきて、自分は源義朝の子どもである、と名乗ったとき、藤原秀衡は容易に了承したであろうか。
ただし、後述するように、中世史研究者の保立道久氏は、義経の縁故の人物が平泉におり、その紹介で義経は秀衡と出遇うことができたのだ、と書いているのだが。義経は「吾妻鏡」のなかで自分の幼・少時の経験を語っているが、それにはふたつの物語があり、その点についても前掲拙論で述べた。簡単に触れるなら、まず幼年時代、母親が再婚した一条長成によって鞍馬寺に預けられ、青年時代に奥州藤原氏のもとに身を寄せ、兄、頼朝の挙兵のニュースを識って、兄のもとに駆けつけたというもの、もうひとつは、のちに兄頼朝から冷遇されたとき、兄に差し出した「腰越状」という文書のなかで、みずからの幼・少年時代、母の手に抱かれてあちこち放浪し、人民に服仕した(人民によってこき使われた)と語っている。ほとんどふたつの別の物語というしかないのだが、疑問を差しはさむ研究者は皆無のように思われる。保立氏も同様であった。
●義経の母は、いろんな物語のなかで、常盤という九条院の雑仕女であったと書かれているが(「尊卑分脈」のなかでも、母を常盤と明記している。ただし「吾妻鏡」のなかでは義経の母は出て来るが、その名まえは出ていないように思う)、「尊卑分脈」を含む、当時の多くの系譜のなかで、女性名が現れるのは天皇の皇女や、天皇の妻になった女性たちであり、ほかには白拍子や遊女など芸名のような名を持っている(義経の愛人の静御前、清盛の愛人であった祇王、祇女など)。そう考えると常盤という女性は説話性、伝承性が色濃く、わたしなどは実在の女性として捉えることができないのではないかと考えるのである。
伝承が文字化、あるいは文章化されると、ある種の歴史性を帯びて来ることは、たとえば、「日本書紀」などの初代天皇神武の、九州からの東遷、畿内への侵攻という話などが典型のひとつである。わたしが尊敬する歴史学の津田左右吉は神武天皇から神功皇后までの天皇の系譜は後世に造形されたものと考えたが、あくまですべては史実であったと主張する論者もかなりいる。伝承の文字化に犯された研究者というしかないと、わたしなどは考えるのだが。
●国文学、歴史学の角田文衛氏の『日本の女性名――歴史的展望』(上、中、下、教育社歴史新書、一九八〇年)という本を発見した。この本によると角田氏は、常盤などの名になんの疑問も持たれていないようであった。角田氏はむかし読んだ本(『承香伝の女御――復原された源氏物語の世界』中公新書、一九六三年だったか)において、多くの中世研究の本において、女性名を訓で読めないため音読みになっているのだが、男の名まえと同様、訓で読めるのだ、と書いていて興味を持った。その根拠は京都あたりの大学の研究紀要のような冊子に書いてある、とあったのだが、その冊子を捜すことができなかったため、根拠は今も解らない。
最近の研究者のなかには女性名に訓読みでルビをふっている人もいるようだ。しかし逆に、男の名まえがすべて訓読みになっているのはなぜだろう、どうして訓で読めるのだろうか、と新たな疑問も生まれたのである。
●常盤あるいは常葉の名を出しているのは「平治物語」、「平家物語」、「義経記」などであるが、ちなみに延慶本「平家物語」(栃木孝雄/谷口耕一編『校訂 延慶本平家物語』(一)汲古書院、二〇〇一年)では、清盛には娘が八人あったとして、高倉天皇に嫁して安徳天皇を生んだ徳子など、七人を出したあとに、義経の母、常葉も清盛の愛人だったことがあり、《このほか、九条院の雑仕、常葉が腹に一人御いましき。廊(ら う)の御方と申しけるとかや》とあり、この本では常盤が義経の母であったなど、一言も触れていない。それは流布本とよばれる角川文庫本「平家物語」(平仮名整版本)も、清盛の妻妾七人を紹介したあと、《その外、九条の院の雑仕、常盤が腹に一人、ら ふの御方とぞ申しける》とあり、やはり義経のことなどおくびにも出していないのである。また、義朝と別れたあと、大蔵卿藤原長成と再婚したという話なども載せていない。つまり、九条院の雑仕常盤(常葉)は、義経などとなんの関係もない、清盛の愛人に過ぎなかったのではないだろうか。それも伝承であろうが。問題は、「平家」の延慶本と、常盤の三人の息子の話を載せている「平治物語」のどちらが早く成立したか、ということになると思う。事件そのものは「平治」のほうが早いわけだが、語り物として早くから人口に膾炙したのは「平家」ではなかったかという気がする。しかし単なる憶測に過ぎないのだが。そして、この「玉葉」を読む仕事から、こんな考察は少しずれてしまうので、ここで常盤論はやめることにする。
●また余談になるが、イエス・キリストの存在のありようと、義経のありようが構造的によく似ているとかつて考えたことがあるが、それはイエスと義経という人物たちは、幼児の説話があり(もっともイエスは聖母に抱かれた赤ん坊、すなわち聖母像として登場しており、幼児物語はない。これは古代地中海地方の神話・宗教上の母子神信仰をなぞっているに過ぎないのだが)、しかし「新約聖書」には成長したおとなとして登場し、目覚ましい活動をして(イエスはバプテスマのヨハネの洗礼を受けて早速説教を始めたとされているのだが)、そして若くして死んだ(殺された)という物語が彼らを支えているからだが、義経もまた成長した雄姿を「平家物語」の[平平戦争]のさい、大活躍して、のちに奥州で殺される(自殺とされているが)。イエスが登場するのは「聖書」しかなく、同時代のどんな本にも出て来ないから、懐疑論的研究者はイエスを架空の人物として捉えている。
そういう意味で、義経もまた造形された英雄ではないのかと、昔から感じていたのであるが、今回の作業を通じてやはり、義経はイエス同様、造形された人物ではないのかという、現在の日本史研究家の誰一人認めないであろう仮説が、また自分の幻想のなかで膨らんできた。「平家物語」に詳しい一の谷や壇ノ浦の合戦も、ひょっとして文学的に作られたものかもしれないという気もしなくはない。こんな見解に賛同してくれる人は世の中ひとりもいないと思うのだが。「吾妻鏡」では頼朝の義経への執拗で過剰な怒りから、義経を殺すという結末が形成されているが、義経を消そうとしたのは、頼朝の怒りという物語を捏造した、「吾妻鏡」の編者、北条氏たちであったのではないかという気もするのである。
●これに対し「義経記」の記述は完全な物語であって、このことに異論を唱える研究者もいないであろう。
「義経記」は「平家」が書いてない幼・少年時代と、頼朝に追われて奥州に逃走したところを克明に描写した本なのである。やはり、義経は[伝承]と[歴史]のすれすれの接点のなかで生きていた人物というしかないと思うのだ。「平治物語」、「平家物語」、「義経記」ほか、幸若舞、御伽草子の物語などを繋げて考察していけば、義経非在論が一冊書けそうだ。
●ついでに、頼朝の妻、政子もまた、名まえを明らかにされている女性だが、ほかには木曽義仲の愛人か妻の巴御前などがいる。この人たちだけ、なぜ、名まえが出てきたのであろうか。巴御前は、義仲の死後、鎌倉に呼び出され、幕府の重鎮の和田義盛に見初められ、結婚したという。そして生まれた朝比奈三郎義秀は、「吾妻鏡」に水練の達者という非常にユニークな登場をする。そしてのちに、江戸の滝沢馬琴の「朝夷奈島巡り記」の主人公になった。こんな特殊な人物に思いを馳せた馬琴は凄いとも思う。歴史と違って伝承の世界は過剰におもしろいのだ。義経は奥州で死んだのではなく、北海道に渡り、大陸に渡ってのちにジンギスハーンになったという伝承を持っている(最近、このテーマで大まじめに本を書いた著者もいる。山崎純醒『義経北紀行伝説』第一巻平泉篇、批評社、二〇一六年)。
●これらの伝承の問題に、奥州藤原氏の実力者秀衡の、頼朝、義経との視えない関係、インヴィジブルな関係も加わり、頼朝・義経伝承のもっとも重要なテーマであると考える。私見では秀衡は東北蝦夷の系譜にあったのであり、蝦夷論がおおいに重要テーマとなるのだ。以上のような疑問から、わたしの[素朴リアリズム主義]を納得させてくれる解答を、同時代記録である「玉葉」の世界に捜してみようと考えたのである。
そこで源頼朝が坂東平氏の支援を受けるための条件として、わたしが考えたのは、(1)頼朝は痩せても枯れても、京都朝廷の官人(最近、軍事貴族、辺境軍事貴族などという言葉がある著者たちによって使われている)の子息であるということ。関東の名もなき平氏豪族たちにとって、頼朝の出自は大きかった。
(2)頼朝は、(1)との関係で京都朝廷や後白河法皇の院庁とのあいだにパイプをもっているのではないか、というある種の期待が関東豪族武士たちにあった。
(3)地方においては、源氏対平氏という構造的対立が京都におけるほど明確ではなかったのかもしれない。前九年の役という、奥州の蝦夷征討の話をまとめた「陸奥話記」のなかでは、主人公の源頼義は、上野の守、平直方の娘婿になっており義家が生まれているし、「将門記」でも源氏と平氏の結婚が描かれ、坂東という、日本の東部では土着した平氏と中央から来た源氏の結婚があったように書かれている。史実かどうかは解からない。
(4)河内源氏の嫡流と名乗る頼朝が征夷大将軍ともなれば、平氏、藤原氏らの結集する関東武士団の集合体にとっても相当有利な条件になるのではないか。といったことしかイメージできないのである。
上に書いたように「玉葉」は、京都上級貴族の九条兼実(右大臣、のちに摂政となる)の日記で、鎌倉幕府成立後の随分あとに成立した「吾妻鏡」に較べると、史料的価値がまったく違っている。そこで「吾妻鏡」はなるべく参照せず、ひたすら「玉葉」に現れた関東の情報を集めて、幕府成立の様相を眺めてみようではないか、と考えた。補足的に、当時のたくさんの貴族の日記や同時代文書を援用して、宇多天皇の仁和三( 八六七)年から北朝後円融天皇の応安五(一三八四)年までの「日本中世史」を纏めた東京大学史料編纂所編纂の『史料綜覧』( 東京大学出版会、一九三〇年、一九八五年に復刻とある。以下、『綜覧』と表記する)をときどき覗いて「玉葉」では官職名しか出ていない人物の実名を確認したり、ほかの貴族たちの日記の記事によって、ある種の歴史的蓋然性を確認した。テキストとしての『玉葉』は、国書刊行会が、明治三十九年(一九〇六)に発行した本を、黒板勝美が校訂したもの(すみや書房、一九六六年)で、これを使用した。この漢文を自分流に読み下し、漢字を開いたり、ルビをつけたり、「武蔵国」を「武蔵の国」、「平清盛」を「平の清盛」などと発音通りに表記したりして適宜補い、読みやすく編集したが文章は変えていない。『史料綜覧』は原文通り引用した。「玉葉」の引用文のなかで、[  ]でくくった部分は、本文中に挿入された割書きとよばれる文章で、小さな字で二行書きになっている説明文章である。この割書きを書いたのは兼実か、のちの校訂者か、不明である。〔 〕はわたしが付記した説明、《 》は史料や研究書などからわたしが引用したものである。多くの武士たちの系譜をまとめた本に「尊卑分脈」があり、吉川弘文館の『新訂増補 国史大系 尊卑分脈』を使用した。
●さらに、前半部は「游魚」三号でのメール論議に参加していただいた石井浩子さんにも読んでいただき、読みの間違いやその他を指摘していただいた。石井さんの見解も、あちこちに鏤めさせていただいた。石井さんから頂いた感想文は補遺?として、?I?、と表記した。それにたいするわたしの意見は補遺1として◎A◎で表示した。『玉葉』のもとの漢文を読み下すにあたって誤読しているところもあると思うが、大学院で説話学を研究された石井さんがチェックして正してくださった部分もかなりある。
●「玉葉」の記述にはしばしば、「伝聞」という言葉が現れる。著者兼実が、みずから立ち遇ったできごとでなく、だれかから聞いた世の風聞を書いたところと考えられるが、これを伝聞す、とか伝聞しぬ、と訳すためには、当時、伝聞という漢字熟語があったかどうかが問題である。そこで、「伝え聞く」としたのだが、「風聞」という言葉はあったようなので、「伝聞」もあったに違いない。そこで、第3部以降は、た
んに「伝聞す」とすることにした。このような熟語には苦労したが、こういったことは、訳者の一般的な労苦であり、また愉しみであるのかもしれない。
●また、清盛以下の伊勢平氏とよばれる一族は、京都朝廷や院庁で上級貴族化した特異な存在なので、以下の文章では「平家」と表記して、地方平氏と区別して用いることにした。
●高橋秀樹氏の『日本史研究叢刊25 玉葉精読――元暦元年記』(和泉書院、二〇一三年)という本も発見したが、この本の存在を知ったのが遅くて、自分にとって難読の部分などの助言をこの本から受けることができなかったのは残念である。ただし、「玉葉」は大長編なので、この本は、元暦元年(一一八四年)を解読したもので、わたしの対象とする多くの時代には触れていないようだ。
●わたしの方針として、近代以降の研究書などの書名は、『 』でくくったが、それ以前の書籍や文書類は「 」でくくることにしている。「平家物語」、「吾妻鏡」や「尊卑分脈」などがその例である。ほかにも?、◎や★、☆など記号を多数使用したが、★は日記「玉葉」からの引用、☆は『史料綜覧』からの引用、●はわたしの理解や感懐や説明文などの文章を表す。?や◎は内容が少し変わるところ、あるいは少し改まって書くときなどに使用しているが、あまり厳密ではない。
以下、「玉葉」を読む旅に出発することになる。


●著者略歴
安達史人(あだち・ふみと)

1943年生まれ。東京芸術大学美術学部芸術学科卒業
木の聲舎代表(「游魚」編集・発行人)。
もと武蔵野美術大学講師。季刊「武蔵野美術」編集主幹・アートディレクター
〇著書
『神々の悲劇――ギリシア神話世界の光と影』北宋社
『日本文化論の方法――異人と文学』右文書院
『漢民族とはだれか――古代中国と日本列島をめぐる民族・社会学的視点』右文書院
『偽装恋愛?ある痴人の告白』森魚名,彩流社
『処女幻想譚★ヴァージン・ブルース★続・ある痴人の告白』(森魚名)彩流社
〇共著
『言葉空間の遠近法――安達史人インタヴュー集』右文書院
『大衆としての現在』『吉本隆明ヴァリアント』北宋社
『金石範《火山島》小説世界を語る!』右文書院。ほか

目次

東国武士政権●目次
東国武士や幕府に関する「歴史」と「伝承」を巡って
第1部―――東国武士集団の活動の史実を追って……
      源頼朝の挙兵と源義経の登場
       ●協力=石井浩子

以仁王の令旨と謀反人頼朝登場と/「謀反人」とは、国家への反逆者あるいは批判者であったのだ/関東に反逆の聞こえあり/源頼朝の系譜には、奥州蝦夷の血が流れていなかったろうか?/巨星堕つ!平清盛の死は平家ののちの滅亡を予言していた?/奥州の藤原秀衡は、本当に関東制覇をもくろんでいたのだろうか/頼朝の野望とはなんだったのか。なぜ、彼は上洛しなかったのだろう?/木曽義仲挙兵。北陸道を南下し京都に向かう/義仲と源行家、平家追討の先陣となるか/義仲・行家軍、平家軍を撃破/平家一族の都落ちと義仲の京都登場

第2部―――源頼朝と木曽義仲の確執
      後白河法皇の親政と、義仲の栄光とその最後
       ●協力=石井浩子

なぜ、功労者義仲への「田舎者」的誹謗の物語が生まれたのか/頼朝は、日本国の覇者になろうと欲望したか?/逃亡する平家一族。海上を浮遊する日々/義仲の命運、この一大武将の明日はなにが待っているのか?/後白河法皇から義仲に平家追討の宣旨が下った/頼朝の上洛、それは京都人たちの共同幻想であったのか/義経の京都への接近は、諜報活動だったのだろうか/追いつめられる義仲の幻想の世界は、なにを描いていたのだろう/関東に飢饉が起こっている? 社会の不安は政治的混乱を齎す/義経軍、京都に到着。義仲を討つ!/日本中世の武士たちは〈首狩り族〉であったのだろうか/義経ら、平家征討の戦争を開始す!/敗者平家軍の公達武士たちの京都への帰還/義経たちの平家追討、第二弾が放たれた!

第3部―――源義経、その悲劇の開始と不幸な終焉
      京都王権と鎌倉幕府

義経の屋島の戦いと壇ノ浦の戦い/戦後処理始まる。勝者頼朝と敗者平家一族への賞と罰/突如始まった義経の悲劇、頼朝はなぜ義経を排除したのか?/義経の頼朝への反撃、しかし……/義経の西国への逃亡が始まった。しかるに……/大物浦で難破したという義経はどこに行ったのだろうか?/頼朝の院への容喙と院の混乱/行方不明の義経は、京都の街や近辺を彷徨していたのだろうか?/義経は、修行時代を過ごしたという鞍馬寺の周辺に戻ったか/後世の研究者たちの捉えた義経の人物像とは……/関東武士たち、比叡山の森や谷を逃避行し続ける義経を追う/義経は、奈良の寺院の周辺を遁走していたのだろうか?/義経擁護派と幕府派に分かれた京都貴族たち/義経の存亡の風聞しきりなり、および三種の神器のことなど/義経の人物像を解読する/義経は奥州秀衡のもとに逃走していた!/頼朝は英雄的武士などではなく、信心深い一介の男に過ぎなかった/後白河法皇とは、平気で義経追討の宣旨を出す無情の人物だった/義経、その悲劇的死を巡って……/頼朝の奥州藤原氏撃滅は、かつての朝廷の蝦夷討伐戦の掉尾を飾った?/頼朝の異常な昇進と初めての上洛、清盛の後継者となったか/「玉葉」の著者、兼実は、なぜか頼朝への言及を放棄した/後白河法皇の死と、その後の朝廷の展開を視る/頼朝の再上洛と冷淡な兼実の記述/「玉葉」精読と考察のまとめとして

あとがきにかえて
参考文献

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