TOP 現代社会の深層を探る 近代化のねじれと日本社会 増補新版

近代化のねじれと日本社会 増補新版

  • 竹村洋介著
  • 価格 2500+税円
  • 判型:46判、240ページ、並製
  • ISBN 978-4-8265-0670-0
  • 初版発行年月 2017年11月25日
  • 発売日 2017年11月30日

内容紹介文

はじめに
この私たちが暮らしている近代社会において、「自明視」されていることはきわめて多い。「自明視」されていることを、「常識(= common sense)」というのかもしれない。しかし、それらはほんとうに「当たり前」のことなのだろうか。本来、近代化とは、「呪術からの解放」であるべきはずだった。近代社会とは啓蒙主義をその基盤にすえた、すぐれて「理性的な社会」であるはずだった。しかし、近代社会においても、本当は違うやり方、考え方をした方がよいのに、慣習的にそうなっているだけということもたくさんあるのだ。それどころか、近代化は、科学(技術)信仰というあらたな呪術までをも作り出してしまった。今、私たちが生きているこの近代市民社会は、歴史的に見れば、いかようにもありえた可能態のひとつが実現したものであるにすぎない。近代化の歴史は平坦なものではなかったのだ。
近代化の幕開けとなった「フランス大革命」で、自由・平等・友愛というスローガンが示されたが、「自由」な気分だけを満喫し、「平等」でない社会を、「大戦争」とともに生きてきたのが二〇世紀の歴史だったのではないか。
また近代社会が、一方では身分制を乗り越え、つくりあげたはずのメリトクラシー(能力主義・業績主義)―それがよいものかどうかは別として―も、行きわたってはいない。それは、階級・人種・女性・障害者などへの差別を考えればよくわかる。これらは、近代化が遅れているから起きている事態なのか、それとも近代社会そのものが持つ属性なのか。簡単な問題ではない。これらの事象については個別に検討すべき課題であろう。
しかし、近代社会は大胆な単純化と合理化で大きな楔を打ち込んだ。ちょうど、音楽でいう平均律のように。音の高さはもともと稠密性を持った連続体である。ピタゴラス・カンマのように、倍音でも完全には整数倍ではない。しかし、それを大胆に、微少な差異を無視し、平均律のオクターヴの音程に律することで、近代の音楽は、自由さを得て体系的に完成されていった。
法の世界においてもそうである。ケースごとに事情は異なるはずなのに、一般的にあてはまる法律を(神から授かるのではなく)人間の手でつくり、判例を積み上げていった。参政権を考えてみても、よく考え抜かれて投じられた一票も、何も考えずに、あるいは間違って投じられた一票も、同じ一票である。皆が平等であるという擬制のもとに、近代市民社会は出発した。
西洋医学も、男性・女性、おとな・子どもというカテゴリーはあるにせよ、大胆な類型化を進めることにより知識の蓄積を可能にし、体系化をすすめ、飛躍的な進歩を成し遂げた。中国医学のようにケースごとに、こういった体質の人がこのようになった場合にはこの薬をと、個別的で微少な関係を重視してあまりカテゴリー化をすすめないでいると、知識の集積はなかなか進まず、体系化しにくい(それでも世界のさまざまな医療と比較すると、中国医学は西洋医学に次いで二番目に体系化された医学であり、世界の各地にはもっと体系化されていない「医学」が存在する)。
物理学は時間軸と空間軸を固定することで飛躍的進歩を遂げた。いきなり質量はエネルギーに換算できるという観念がもしあったとすれば、そのこと自体間違っているわけではないが、逆に力学は未だカオスの中にあり、ニュートン力学は成立しなかったであろう。
そしてこういうカテゴリー化は、時代とともにますます細分化され、精密なものとなっていく。
いろいろな例を挙げたが、このような大胆な割り切り・位置づけがなされて、はじめて古典的な近代社会というものが体系づけられ成立するのだ。私はあまり使わない言葉だがそれを「進歩」と呼んでもよいのだろう。そして、その「進歩」が幸福を多くの人にもたらしたのも事実だ。
しかし、そういった割り切りにあてはまらない人・物・事象があまた存在することも忘れてはならない。先にその「進歩」は平坦なものでないと示唆したが、近代市民社会の「市民」となることも簡単なことではなかった。女性が、有色人種が、外国人が、市民権を持たなかった。意味合いは違うが、現在でもある種の障害者や子どもは完全な市民権を持っているとはいえない。
しかしながら本書で述べたいのは、日本の近代化が良かったのか、悪かったのかではない。近代化という大きな嵐の中で、多くの人々がどういうアクチュアリティを持ってそれを受け止め、自己のものにしていったかということだ。いわば、自明化された近代化の舞台裏を覗いてみようという試みである。
しかしながら本書で述べたいのは、日本の近代化が良かったのか、悪かったのかではない。近代化という大きな嵐の中で、多くの人々がどういうアクチュアリティを持ってそれを受け止め、自己のものにしていったかということだ。いわば、自明化された近代化の舞台裏を覗いてみようという試みである。
また本文中でも展開するが、ある側面においては、未だ日本は成熟した(西欧を理念型とした)市民社会には、いたっていないと私は考えている。成熟した市民社会が、理念の上だけでなく現実のものとして本当に存在しえるのかという問題はもちろん問われなければならないことだが。このような状態にありながら、国民国家の枠組みを超えんばかりの勢いで、グローバライゼーションという名のアメリカン・スタンダードによる再規制が進みつつある。この事態を私たちはどのように理解すればよいのか。あらゆる面でそれを考察することは不可能である。それゆえ、私が把握できる領域の中でいくつかのトピックスを選んで論集とさせていただいた。
それぞれに連関した章もあるが基本的にはどの章から読み始めていただいても、結構である。もちろん全部読んでいただけるにこしたことはないけれど、各章だけを読んでいただいても理解できるはずである。それでなにがしかのご感想をいだいていただければ、著者として幸せである。


増補新版へのあとがき
旧版が六章だてであったのに、本版では八章だてとなった。それだけでも大幅な増補改訂である。
しかも後半に三章を足しただけでなく、前半の五章においても、時代が古くなったもの、わかりにくかっただろうことを大幅に訂正した。また時代の変化によって大きく変わったところは、できる限り増補したところで補いもした。「ネオ・リベラリズム」という概念の用い方もその一つである。それでも、書ききれないことはいくつか残った。例えば第二章で扱っている言語の統一の問題がそれである。旧版の時から「書き言葉」と「話し言葉」の違いは指摘してあり、「書き言葉」こそが民族統一のひとつの、しかし大きな源流であることは記した。そしてラジオの普及をまって話し言葉の統一となったと。
しかし、つぶさに、見ていくと「書き言葉」「話し言葉」という分類はあまりにも大雑把すぎた。
書き言葉には目で「読む」、手で「書く」という二つの亜型がある。書けなくとも読めるということはある。この「目」と「手」は、近年のパソコンの普及により大きな変化を見せている。しかし明らかに書き足りなかったことは、話し言葉の「耳」と「口」である。第二章にも記したようにラジオは「耳の統一」をもたらした。それに間違いはない。しかし実際に喋る「口」はどうだったか。NHKは放送にあたってどのような話し言葉を使うか、大分のマニュアルで規定している。そのためたしかに、アナウンサーの話し方は統一されただろう。アナウンサーの「口の統一」はなされた。そして聴取者の「耳の統一」もなされた。だが、一般の人が話す言葉はアナウンサーのそれとは異なる。それは、年代、地方、職業、労働、階級などに規定されてさまざまな「方言」をいまだに色濃く残している。「口の統一」はいまだなされていないのだ。
その他にも注記したいことは少なくありませんが、あとがきにかくべきことではないかもしれないので、ここでとどめることにします。
本書を通貫して底流を流れている問題意識は日本の「モダニティ」=近代化とは何だったのかということです。高度成長期、戦前、さらには、大正、明治期と遡ってみると、現在の眼からは「珍奇」としか言えないさまざまな事象が現れては消えています。
後半の増補分の三章は、このモダニズムの現在的局面、ネオ・リベラリズムという、見せかけの規制緩和とルール変更による「再規制」の問題を教育という領域に当てはめて考察してみました。この「ネオ・リベラリズム=「再規制」」という概念は、六章の冒頭にも記した通り、経済・社会学で用いられているそれを教育の分野にあてはめたものです。
他にもっと時宜的なものを入れても良かったのかもしれません。加計学園問題、森友問題、ビットコインの分裂、あるいは東京オリンピックに向けての都の「みんなでラジオ体操プロジェクト」など本書にかかわってくる問題は多々あります(断片的には少し触れたものもありますが)。しかしそれは読者の皆さんが、本書をどう読むかにまかせたいと思います。
本来なら教育のことだけではなく。もっと幅広く「モダニティ」についても論じたかったし、教育についてもネオ・リベラリズム以外の切り口を考えてもみたかった。しかし、三〇年近く取り組んで来た不登校について、ひと区切りつけられたことで、本書は良しとしておきたい。それ以上のことはまた新たな本でということにしておきましょう。
ここまで読んでいただけた読者の皆さんに「ありがとう」の言葉を捧げたいと思います。
二〇一七年八月大阪にて記す 

【著者略歴】
竹村洋介(たけむら・ようすけ)
1958年生まれ。束京大学文学部社会学科卒業。
同大学院教育学研究科博士課程修了。
近畿大学非常勤講師。
著書に『ひきこもり』『学校の崩壊』(共に共著、批評社)『女性学教育ネットワーク'95』(共著、女性学教育ネットワーク編集・発行)『福祉と人間の考え方』(共著、ナカニシヤ出版)『水俣五〇年』(共著、作品社)他。

目次

はじめに 3
第一章 どうして子どもは学校へ行くのか 14
1―1 学校で教わる知識 ……15
1―2 学校で何を教わっているのか ……18
1―3 学校の権威喪失ー不登校と学級崩壊 ……19
1―4 学校と子どもの変容ー学校の存立構造 ……22
1―5 学校の飽和 ……26
1―6 学校をやり過ごす子どもたち ……29
1―7 現実の対応策について ……31
1―8 絶望の中で光をー溶けだしたガラス箱の中で ……33

第二章 ラジオ体操と日本社会の近代化過程 40
2ー1 ラジオ体操という近代化 ……41
2―2 世界のラジオ体操 ……43
2―3 日本のラジオ体操の歴……44
2―4 身体への注目……49
2―5 モダンな音楽 ……58
2―6 ラジオというメディア ……65
2―7 結び ……71

第三章 フリーターと「社会的ひきこもり」84
3―1 自己実現について ……84
3―2 「社会的ひきこもり」概念の再検討 ……88
3―3 ひきこもりのプロセス ……93
3―4 内面的自己実現と社会的〈自己実現〉について ……97
3―5 フリーターという存在 ……100
3―6 急かされる青年たち ……104

第四章 エコロジズム運動と政党 107
4―1 はじめに ……108
4―2 原発事故とエコロジズム・ムーヴメント ……109
4―3 エコロジズム政党の内的勢力関係 ……113
4―4 エコロジズム政党の構造と党員のかかわり ……116
4―5 社会運動との関係と政党としての消長 ……119
4―6 エコロジズム・ムーヴメントのめざす社会 ……123
4―7 日本のエコロジズム・ムーヴメントの可能性 ……126

第五章 エコロジズム政党の現在における可能性と困難 131
5―1 一九八五年・西ベルリン・春 ……131
5―2 エコロジズム政党レベルの選挙での浮沈 ……137
5―3 エコロジズム政党の実績 ……142
5―4 「環境にやさしい」はすでに市場経済の重要なファクター ……146
5―5 市民運動との関係 ……151
5―6 反グローバライゼーションの抵抗拠点 ……153

第六章 教育と「病気」の語られ方?思春期前後の若者をめぐる言説から 157
6―1 スチューデント・アパシー ……160
6―2 「不登校」という現象 ……163
6―3 「社会的引きこもり」というディスクール …… 172
6―4 「ニート」という概念 ……181
6―5 おわりに ……183

第七章 障害児とフリースクール―「個」の病としてではなく 188
7―1 障害児は増えているのか? ……189
7―2 学校での特別支援教育への取り組み ……190
7―3 特別支援教育コーディネーター ……192
7―4 発達障害者支援法 ……192
7―5 フリースクールでの受け入れの増加 ……195
7―6 フリースクールではどのように取り組んでいるか ……196
7―7 フリースクールの限界 ……197
7―8 再び「発達障害」とはおよびNOSについて ……198

第八章 間違いだらけの不登校対策法―ネオ・リベラリズムと「再規制」 202
8―1 始まりは臨時教育審議会だった ……203
8―2 「多様な」教育機会 ……205
8―3 フリースクールとは何か? ……207
8―4 前史 ……208
8―5 臨時教育審議会について ……210
8―6 義務教育の段階における普通教育の多様な機会の確保に関する法律 ……211
8―7 「個別学習計画」をめぐって ……213
8―8 安倍首相・下村文科相の動向、「特区」構想 ……215
8―9 現場の声から ……216
8―10 南康人とのやり取り ……218
8―11 錯綜する現場 ……231

増補新版へのあとがき 236
初出一覧  239

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