TOP Problem&Polemic:課題と争点 「教育」という過ち─生きるため・働くための「学習する権利」へ PP選書

「教育」という過ち─生きるため・働くための「学習する権利」へ PP選書

  • 田中萬年
  • 価格 2500円+税円
  • 判型:46判、272ページ、並製
  • ISBN 978-4-8265-0666-3
  • 初版発行年月 2017年7月25日
  • 発売日 2017年7月27日

内容紹介文

明治国家の形成過程において、"education"は「教育」とされてきたが、そもそも欧米では、「人が学習する権利を持つことに通じる」という意味で、江戸時代の寺子屋のようなものであり、「教育する権利」のように国家に付与されるものではない。
この誤訳を定着させたのが「教育勅語」である。「教育勅語」は戦後憲法によって否定され、「教育を受ける権利」は国民の権利として尊重されるはずだったが、「教育する権利」は国家に付与されたままで、人びとが主体的に「学習する権利」ではなかった。そのため、公教育においては、逆に国家意志をとおして「教育」が推し進められ、結果、今日では教育格差を生み出し、格差社会の元凶にまでなっている。

 明治時代から今日に至るまで国民は「教育」についての正しい知識を紹介されずに「騙され」てきた、といえる。「教育」とは国が教え育てるの意味で、ちょうど、ウグイスなどの小鳥がホトトギスに托卵させられて孵化するように、国民は「教育」が崇高なこととして国家によって「托」教育させられているのである。それは明治以降の「教育」が「飼育」と同じ観念によって推し進められてきたからであった。

 「教育勅語」の非人権性は明らかであるにもかかわらず、保守系の為政者は「教育勅語」を利用しようとする。問題は「教育勅語」を排除すべきと言う人も「教育」という語を認めることによって「教育勅語」の精神を無意識のうちに許容していることである。
 個人の尊厳を保障し、一人ひとりの個性を活かすことは学習権の支援でなければならない。つまり、「教育を受ける権利」を「学習する権利」(職育学)に根本的転換を図るように改定することである。
個人の「学習する権利」なら為政者の意図が介入する余地もなく、学習者の要望に応じて準備されたコンテンツ(内容)を選ぶことになる。そうすれば国家による教育行政の統制は不要となり、巨大な管理機構も不用になる。
 学習権の要望は個性により異なる。個性に即した学習であれば意欲も増す。個性に即した学習を保障するためには個別学習が望ましい。全国一律の学力テストは無用となる。そうすれば、一人ひとりの個性ある能力が向上するだろう。
 学習権の保障は、一人ひとりの自立意識を同時に育むであろう。自立観が育てば、職業観も育ち、多くの個性ある創造性豊かな人材が生まれ、活力に溢れるであろう。もっとも、これを保証する条件として「職業に貴賤なし」の観念が社会に浸透していなければならない。いつの時代も、どのような国も社会と無関係な人間の育成策はないからである。国家百年の計とは、目先の利益追求ではなくベーシックな構想に支えられていなければ意味がないと言える。
はじめに

今日、「教育」の言葉に疑問を持つ人はいないであろう。筆者もフツーの日本人であり、日本の教育を受けて育ったので、教育に対する常識は周りの人と変わったところは無かった。
例えば、退職して研究室を片付けるとき、職業訓練指導員を経て研究生活を始めた当初に購入したある教育書の扉裏に「教育の立場より職業訓練を常に見直そう!!
」と記していたことに気付いた。職業訓練には問題があり、教育学で職業訓練を整理すれば職業訓練の問題は解決できるのではないか、との素朴な思いを持って研究生活に入っていたのである。
ところが、研究を進めていく過程で様々な事態に当面する度に、職業訓練が問題なのではなく、教育の捉え方にこそ問題があるのではないか、と考えるようになった。
寺子屋・藩校に代わり明治五年に近代学校が設立されたが、国民の多数を占めていた農民は学校が農民のためにならず、学費・経費がかさむために反発し、学校批判運動を起こした。中には学校焼き討ちまでに過激化し警察では取り締まれず、争議は軍隊により鎮圧された。寺子屋に反発した農民はいなかったが近代学校には反対したのだ。つまり、今日言われるわが国国民の学歴主義観、教育信奉の意識は学校制度が成立した時からあったのではないことが分かる。
  
「教育」への信奉は「教育を受ける権利」が民主的だとする信用に連なる。今日の教育策を批判する者も、「教育を受ける権利」を批判する者はいない。つまり、「教育を受ける権利」という同床の教育への異夢論であり、ここにわが国の教育論が百家争鳴を呈している根源がある。例えば、「教育権」として論じられることがあるが、国語辞典の「教育」の定義に従えばその意味は「教育する権利」となり為政者の権能を意味している。しかし、「国民の教育権」のような論があるが、いかなる国民がどのような国民を教育する権利なのだろうか。「親が子を教育する権利」を理解するとしても、これとて子の躾だという虐待や「教育虐待」の言い訳に使われている。
「教育を受ける」ことによって自立観が育たないのは疑いない(国立青少年教育振興機構「日本の高校生は受け身で消極的?」二〇一七年三月一三日)。自立観が欠如していれば就業のための学習よりも進学のために教育を受けることが楽(得)だという思いは学校で身に付くだろう。
とはいえ、国民は「教育」を誤解している、と筆者はいうのではない。国民は「教育」についての正しい知識を紹介されずに「騙され」てきた、と考えている。ちょうど、ウグイス等の小鳥がホトトギスに托卵させられ孵化させられているように、国民は「教育」が崇高なこととして「托教育」させられているのである。それは「教育勅語」の「教育」の観念によってである。
そのような中で、「教育勅語」の非人権性は明らかであるにもかかわらず、保守的為政者・指導者は「教育勅語」を利用しようとする。問題は、「教育勅語」は排除すべきと言う人も「教育」を認めることによって「教育勅語」精神を無意識のうちに許容することになるのである。
ところで、「日本国憲法」を改正すべきことは国民主権を強化することであろう。個人の尊厳を保障し、一人ひとりの個性を活かすことは教育では困難であり、それは学習の支援でなければならない。
つまり、「教育を受ける権利」を「学習する権利」に改正することであろう。
それでは、「学習する権利」では何が改善されるのだろうか。
彼・彼女等が学ぶ学習内容は為政者の意図によるものではなく、学習者の要望に応えて準備されたンテンツ(内容)を選ぶことになる。したがって、学習の保障は政争の具にならない。すると、教育行政の統制は不要となり、強大な管理機構も要らない。人間育成策(教育策)が「学習指導要領」の改訂の度に振れることもなくなる。
学習の要望は個性により異なる。個性に即した学習であれば意欲も増す。個性に即した学習を保障するためには個別学習が望ましい。すると、全国一律の学力検査は無用となる。そうすれば、一人ひとりの個性ある能力が向上するだろう。個性を認めれば差別もいじめも発生しないであろう。
「学習の保障」は一人ひとりの自立の意識もあわせて育むであろう。自立観が育てば、職業観も育ち、多くの個性ある創造性豊かな人材が生まれ、活力に溢れるであろう。もっとも、これを保証する条件として「職業に貴賤なし」の観念が社会に浸透していなければならない。いつの時代も、どのような国も社会と無関係な人の育成策はないからである。
今日は他国との交流が避けられない。人間育成についても国際的に共通な土台に立つべきだろう。
educationは「教育」ではなく、「能力開発」がより近い。誤訳を定着させたのは「教育勅語」である。
education観と全く異なる「教育」観ではお互いに誤解したままで相互理解ができるはずはない。educationの観念により近い「学習支援」であればお互いの意図が通じるはずである。
 今日、わが国は教育の機会が裕福層に有利となり、格差の再生産が教育によってなされていることが指摘されている。?教育が格差を拡大している?と言うことは、教育の根本原則である「教育を受ける権利」が国民の権利になっていず、負のスパイラルを拡大していることを示している。
ヒントは北欧にあるようだ。わが国よりもGDPが小さい少なくない国で幼稚園・保育園から大学までの学校教育と就職のための職業訓練を無料またはわが国に比べれば遙かに僅かな学費で、若者だけでなく国民は就労条件を高めるためのスキルと知識を得ている。
為政者、指導者、社会的成功者にとっては今日の教育制度は有効であり、改革する必要性を感じないであろう。その路線の社会の見方として「底辺に甘んじているのは『教育を受ける権利』を放棄したための自己責任だ」とする論が正しいように思われ、格差の底辺に耐えている社会的不運者(弱者)は、既存の「教育」の?常識的?考えでは問題が「教育」そして「教育を受ける権利」にあるとは思いもよらないのではなかろうか。
教育を差配する為政者に教育の改革を望むのは筋違いであり、教育の真の改革は国民の学習権の立場からしかできない課題であると考える。本書が国民の立場からの次代を担う若者の学習権について今後のあり方を考えるヒントになれば幸いである。

【著者略歴】 
田中萬年(たなか・かずとし)
 1943年旧満州国大連市生まれ。
 職業訓練大学校卒業。職業訓練大学校研究員、助教授、教授を経て、職業能
力開発総合大学校名誉教授。日本産業教育学会会長・学術博士。
 専門は職業能力開発、職育学。
主な著書
 『わが国の職業訓練カリキュラム』 燭台舎、1986年。
 『生きること・働くこと・学ぶこと』 技術と人間、2002年。
 『仕事を学ぶ』 実践教育訓練研究協会、2004年。
 『職業訓練原理』 職業訓練教材研究会、2006年。
 『教育と学校をめぐる三大誤解』 学文社、2006年。
 『働くための学習』 学文社、2007年。
 『「職業教育」はなぜ根づかないのか』 明石書店、2013年。

目次

序論
「教育」は官製語である─education は「教育」ではない・19
一、「教育」は官製語である……20
大田堯の「教育は外来語であり官製語である」論
二、?王の楽しみ?から?ロボット製造?になった教育……21
?王の楽しみ?として創られた「教育」/わが国の「教育」の定義/「学問」の経過/「教育」の使用/教育に中立性はない/「教育」はロボットの製造である/「教育」が適切な分野は軍隊と企業/鶴見俊輔の「教育」の再定義は成功していない/再定義ではなく、新たな言葉への転換を
三、education を「教育」とした誤訳……32
大田堯の「教育」の誤訳論/わが国の英語教育の誤ち/ education は能力の開発である/「教育」と「開発」の差異/ルソーの“éducationnégative” を「消極教育」では理解できない/ヘボンは同定していなかった/中国ではeducation は「文学」だった/福沢諭吉の「発育」論/ポー会議の「現代学校憲章」
四、「教育」とeducation を同定した?教育勅語官定英訳?……43
「教育勅語」制定の意図/「教育勅語官定英訳」の必要性
五、若者の労働過程の学習が発達したイギリスの学校……44
職業資格と学歴資格の統合の経過
六、職業尊重の欧米諸国の学校制度……48
ドイツの学校制度/フィンランドの学校制度と労働経験/ILOの「職業訓練に関する勧告」の定義/ユネスコの「技術教育に関する条約」の定義/OECDの日本への提言

第一章
「教えること」と「学ぶこと」─明治以前の人間育成の確立と分化・58
一、「学ぶこと」は「まねること」……59
「まねること」は仕事のはず
二、徒弟制度の形成と職業能力の修得……61
「徒弟」の意味/徒弟制度は最初の整備された人材育成システム/徒弟制度による人間育成/伝承方法の発達と分化/空海の綜芸種智院における技術の指導
三、勤労観の形成と社会の発展……66
蓮如による勤労観の形成/職人の勤労観/石門心学の勤労観/二宮尊徳の勤労観
四、仕事の「学び」が支援された寺子屋……73
往来物による仕事の学び/郷学と私塾/障がい者の職業支援の始まり/社会復帰のための職業能力の付与
五、支配者の教育が行われた藩校……78
藩校の教育/武士階級の「教育」と庶民の学習支援
六、人間育成の知識重視策と経験重視策……79
一般陶冶と労働陶冶/佐賀藩の職人と学者の協力

第二章
学習支援のために設立した文部省と学校─教育に変質した文部省と学校・84
序、明治初期の江戸時代的枠組み……85
寺子屋的学校設立の指示/京都の番組小学校/小学校設立の指示
一、「学が く文もん」の省だった文部省……91
教部省の設立と「三条教則」/名は体を表す/「文」は「学文」の文
二、「学問」の場所だった学校 ……94
「学制」の理念と制度/四民平等の学校制度/学問の場所だった学校/不就学への警鐘
三、「教育令」による文部省と学校の変質……100
「立身出世」という教育の効能/「勉強」は借用語である/「授業」という上意下達
四、後回しにされた困窮者の支援……105
都会の下層社会での学校設立の遅れ/石井十次の「時代教育法」/新渡戸稲造の札幌遠友夜学校/障がい者の職業支援活動
五、農民による学校拒絶から学習権要求へ……112
農民の困窮の深化と政府批判/学校拒絶から学習権要求へ/学習権要求の同盟休校/木崎村農民小学校における「非教育」の追求
六、文部省の廃止世論と擁護論……121
「教育」の庶民への浸透と文部省の廃止論/大隈重信の文部省擁護論/「学芸省」への改称案と頓挫

第三章
国民の権利にならない「教育を受ける権利」─戦前の「教育」を信奉した?民主?観・125
一、「教育を受ける権利」の規定過程……126
GHQが参考にした「教育」忌避の鈴木安蔵「憲法草案要綱」/教育ではない人間育成法とは/?マッカーサー草案?のeducation /
「教育を受ける権利」の規定経過/国体護持者が賛成した/佐々木惣一だけが疑問を呈した/「裁判を受ける権利」との差異
二、日本独自の「教育を受ける権利」論……134
堀尾輝久の「教育を受ける権利」論の誤解/「教育を受ける権利」ではないソビエト憲法/「教育を受ける権利」ではない「世界人権宣言」/端緒は国立国会図書館訳だった/「教育を受ける権利」が意訳されているドイツでの紹介/フランスでも「教育への権利」である/マララさんは「教育を受ける権利」とは言っていない/「子どもの権利条約」も「教育を受ける権利」ではない/人権が守られていない不登校児童
三、労働権無視の「教育を受ける権利」論……146
堀尾輝久の「教育を受ける権利」の思い込み/「世界人権宣言」における労働権との関係
四、?日本的雇用慣行?と一体の「教育を受ける権利」……148
濱口桂一郎の「メンバーシップ制」論/ “Work” は「勤労」ではない/教育と勤労の密接な関係/文部省による「勤労」の使用
五、護憲と「教育を受ける権利」……152
教育の国家性/護憲と国民の権利
六、 「教育を受ける権利」と「学習する権利」……155
大田堯の「学習する権利」論/教育と学習との関係/教育と給食の関係/幸徳伝次郎と下中弥三郎の「教育を受ける権利」論/学習と求0
食の関係/ユネスコの「学習権宣言」/個性尊重とカフェテリアでの昼食/「区別しなければ差別になる個性尊重」と「区別すれば差別になる平等」

第四章
「教育勅語」と共存した「教育基本法」─education の観念を無視した文部省・165
一、戦前教育の?刷新?と「教育」概念……166
教育刷新委員会の設置
二、GHQのeducation の目的観を無視した文部省……168
三、「社会教育」への日米の思惑……170
当初原案になかった「社会教育」/ education と「教育」との差異を固定化/「工場・事業場の教育」から「勤労の場の教育」へ/「社会教育」への日本の思惑/ education と職業との関係/「勤労の場所の教育」の構想
四、「勤労の場所における教育」を削除したGHQ……176
アメリカ人も英文を誤解する
五、「教育勅語」と「教育基本法」の共存……180
「教育勅語」精神での戦後教育改革/GHQから指示された「教育勅語」の失効決議/鈴木安蔵は改正を提起していた/「教育の中立」の問題
六、「教育の機会均等」を学校内に限定した文部省……187
職業訓練の単位認定の可否/労働省の早合点/教育刷新審議会の職業教育振興方策/文部省・労働省の教育訓練に関する離反/産業界の要請による学校中心の技能連携制度/二種の技能連携制度/「勤労の場所における教育」が削除された新「教育基本法」/市民の職業的自立の権利が規定されているフランスの?教育基本法?

第五章
education を「学習」とした第二の意訳
─「生涯学習」という自己責任論と職業能力開発の包摂・199
一、職人が実践していた「生涯学習」……200
職人と学習/仕事の中での学び/近代工業における?徒弟制?/職業訓練による「生涯訓練」体系の整備/生涯学習体制の模索
二、海外の“Lifelong Education” 論……207
三、education を「学習」とした自己責任論……210
臨時教育審議会の設置と中央教育審議会の休止/「生涯学習」用語の背景/国際化に対応するための職業の「学習」論
四、職業能力開発を含めた「生涯学習」論……214
「生涯学習」論の変遷
五、子供は教育、大人は学習という自家撞着…… 217
山住正巳の「生涯学習」論/義務教育段階で生涯学習は崩壊している
六、「キャリア教育」は“Career Education” ではない……221
「キャリア」とは何か?/マーランドの“Career Education” /わが国の「キャリア教育」/「キャリア教育」は教育を混乱させる!

第六章
職業を分離した学問観─人間的成長を体系化できない職業教育振興策・227
一、労働による人間育成論……228
欧米の「労働陶冶論」/吉田松陰の学校「作場」論/下中弥三郎の『萬人労働の教育』論/戦後の労働陶冶論/大田堯の「第三の教育システム」論/岡野雅行さんの開発の根源は労働経験/小関智宏の『仕事が人をつくる』
二、自立の勤労から奉仕の勤労へ……237
森戸辰男の「勤労」への疑問/明治の廃仏毀釈が勤労観を変えた/「勤労」の唱導は文部省から/戦後も勤労観は継続された/教育学者も「勤労」を利用した/「勤労省」にならなかった労働省/「労働教育」の重要性
三、マッカーサー草案の職業を分離した学問観……244
マッカーサー草案の改編による分離/戦後知識人の学問観・職業観/職業の三要素と職業教育
四、「普通教育」という目標の不明性……248
普通教育の問題/「普通教育」の形成と曖昧性/「人民教育」を使えない三つの理由/「初等教育」だった戦後の「普通教育」/「普通教育」が戦後も批判されない背景
五、「労働による人間育成論」の看過……253
他省庁の職業学校の「統とう摂せつ」と実学軽視/徒弟学校廃止の無原理/経験・実習による人間育成の看過/職業教育軽視観と徒弟制度批
判/徒弟制へのわが国の拒絶観/戦後の労働民主化と徒弟制批判
六、近年の職業教育振興策の学習者軽視……262
中央教育審議会答申の目的
資料1 マッカーサー草案・264
資料2 「日本国憲法」・265
資料3
 
Universal Declaration of Human Rights・266
おわりに・267
  

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