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維新正観─秘められた日本史・明治篇 PP選書(Problem&Polemic:課題と争点)

  • 蜷川 新著/注記・解説:礫川全次
  • 価格 2500+税円
  • 判型:46判、350ページ、並製
  • ISBN 978-4-8265-0619-9
  • 初版発行年月 2015年4月25日
  • 発売日 2015年4月27日

内容紹介文

「維新」の名は美しく世人には響くけれども、事実は極めて醜悪に満ちている。われわれが国定教科書で教えられたことの大部分は、偽瞞の歴史である。その真実の究明から、新日本の「民主」を推進したい。(「序文」より)

尊皇攘夷の旗の下、幕府の開国政策に無謀な異議を唱え、孝明天皇の毒殺をはじめとする奸策と狡知によって、倒幕・権力詐取に成功したのが、薩長の奸賊集団であった。幕末維新史の実相を、史実に即して、大胆にしてかつ独自の視点から「正観」した明治維新論。類まれなる名著の翻刻版である。

 幕末・維新史に関する文献は、さまざまにあり、さまざまな視点から分析されているが、この本ほど当時の事実に即して書かれた本は珍しい。なぜなら著者は明治6年生まれで幕臣小栗上野介の縁戚にあたる人物だからである。
徳川幕府の開国政策は、ペリーが東インド艦隊を率いて、1853(嘉永6)年6月3日(7月8日)浦賀沖に来航し、開国を求めるアメリカ大統領国書を提出したことによって大きく進展するが、老中阿部正弘らを中心に、諸大名から庶民まで幅広く意見を求めて、開国への準備を進めていた。
翌1853(嘉永7)年1月(1854年2月)、ペリーは再び浦賀へ来航し、3月3日(3月31日)に、日米和親条約が結ばれ、下田と箱館を開港したのに続けて、8月には日英和親条約が、12月には日露和親条約がそれぞれ締結されて幕府の開国政策は大きく進展したのであった。
また、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のために、万延元年(1860年)1月、大老井伊直弼の発案により、正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順(上野介)をアメリカから回送されたポータハン号と幕府の軍艦咸臨丸の2隻の軍艦に乗ってアメリカに向けて品川沖から出帆した。使節団一行は、アメリカの地で大歓迎を受け、さらにヨーロッパに向けて見聞を広めて帰国したのだが、その間に、大老井伊直弼は、桜田門外で暗殺されてしまった。
このように幕府の開国政策に無謀な異議を唱え、「尊皇攘夷」という時代錯誤も甚だしいこの攘夷運動に決起したのが薩長土肥の勤王志士と言われる謀略集団であった。
孝明天皇は頑な攘夷論者であったが、孝明天皇の妹和宮と第14代将軍家茂の結婚によって、公武合体を推進し、攘夷派の無謀を譴責して倒幕の愚挙を排撃し、長州藩と公家の7卿の処分を宸筆の勅許をもって公式に伝えたのである。これに憤激したのが薩摩の西郷吉之助、大久保利通、長州の木戸孝允(桂小五郎)、井上馨と公家の三条実美、幽閉されていた岩倉具視ら下級公家の陰謀集団である。彼らは薩摩藩や長州藩とは関係ない中で、倒幕へ向けてさまざまな陰謀、奸策をめぐらし、暴力や毒殺による暗殺などあらゆる策謀を図ったのである。
こうした動きがある中で、大老井伊直弼は、安政の大獄といわれる粛正を断固として敢行し、尊皇攘夷派を抑え込みながら開国へ向けて大きく舵を切って行ったが、その反動とも言える事件が勃発し、さらにその後に孝明天皇の毒殺という一大事件が勃発した。まさに暴虐の連鎖による内乱へと突き進んで行ったのである。
安政7年3月3日(1860年3月24日)、桜田門外で大老井伊直弼が水戸徳川家の家臣によって斬殺され、慶応2年7月20日(1866年)、大阪城内で第14代将軍家茂が毒殺されたが(同年8月20日まで伏せられた)、著者の父親、蜷川左衛門尉親賢は当時小姓組頭で将軍家茂に近侍していたため極秘事をよく知っていたのである。
さらに宮中においては岩倉具視が妹を女官として宮中に潜り込ませ、孝明天皇の毒殺を試みたが、一度目は失敗し、二度目に孝明天皇を毒殺したが、岩倉の妹女官は薩摩に連れて行かれ斬殺されたという。
一般に、孝明天皇は1866年12月25日に天然痘で亡くなったことにされているが、一度目の毒殺は失敗に帰し、12月11日頃から症状が出始めていたが、17日から便通もあり、食欲も回復し、熱も順調に下がり始めていた。二度目の毒殺で、21日から膿が出始め、23日には膿の吹き出しも収まって、全快に向かっていた。病状が急変したのは、25日。激しい下痢と嘔吐、最後には体中の穴等穴から出血という激しい死に様だったという。
「風評では(孝明天皇)崩御の原因は天然痘といわれたけれども、幾年かのちに、私は裏面の消息に精通する日本人から、帝は毒殺されたのだと教えられた」(遠山茂樹著『明治維新』211頁)。当時の武士には武士道の矜恃がまだ残っていたが、薩長の反幕集団には、武士ではなく郷士という武士階級(士分)の下層に属した人々が多く、「尊皇」の志もないまま、損得利害だけで天皇毒殺という大それた犯罪もそれほどの抵抗なく行われた。
その端的な事例は、西郷吉之助らが江戸市中に放った500人近い組織的強盗団である。無頼の徒と化した強盗団は、放火、掠奪を恣にして50万両にのぼる江戸市民の財物を強奪したという(この記録は残っている)。この強盗団による謀略を誘い水に幕府を挑発し、江戸薩摩藩邸への攻撃を誘い出した。西郷は谷干城(たにたてき)に「戦端開けたり。速に乾君(板垣退助)に報ぜよ」と放言したという。西郷は幕府を内戦に引き込むための策謀をめぐらし、そのためだけに無頼の徒と化した強盗団を放ってあらん限りの掠奪を繰り返したのである。西郷という人は、謀略、奸策長けた人で根が陰湿なせいか、江戸無血開城をめぐって幕臣の勝海舟と密談した際に、奥羽越列藩同盟諸藩への武力攻撃を江戸無血開城と引き替えに断行する脅しをかけた節がある。勝は優柔不断な人で幕臣であるにもかかわらず、西郷の脅しに屈服してしまったらしい。
江戸無血開城は、いかることがあっても慶喜の首を取るまでは、と言い張った西郷がイギリス公使パークスに脅されて中止させられたのである。徳川慶喜が恭順の意を示し、謹慎、平伏しているのに、江戸武力総攻撃とは何事か、とヨーロッパ社会の掟(倫理)を楯に抵抗され、もし総攻撃するならイギリスも黙ってはいないと脅されたからである。
その後に続く混乱のなかで、西郷、大久保、木戸、岩倉等、薩長の無頼の徒が偽造した私文書でしかない「王政復古の大号令」「倒幕の密勅」「会津、桑名の藩主誅殺」の勅や鳥羽伏見の乱で幕府方を驚かせた錦旗の偽造(京都の染物屋が作った)によって、「尊皇攘夷」という時代錯誤の王政復古運動を倒幕、権力奪取へとすり替えて行ったのである。したがって、権力掌握後の薩長は、恥も外聞もなく、舌の根も乾かぬうちに「尊皇攘夷」の衣を脱ぎ捨てて開国・欧化を一挙に推し進め、幕末・維新史を捏造していったのである。

第15代将軍慶喜は、世に言う「大政奉還」によって徳川幕府の政治統治に終止符を打ち、新たな国内体制を構築するための上奏文を認めている(書いたのは三河の幕臣永井玄蕃頭と言われている)。
「前略、当今外国の交際日に盛なるにより、愈朝権一途に出不申候ては、綱紀難立候間、従来之旧習を改め、政権を朝廷に奉帰、広く天下之公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候得ば、必ず海外万国と可並立候、云々」
慶喜は、幕府権力を朝廷に帰一して広く天下の公議を尽くして合議制の下で協力し、皇国を保護すれば必ず諸外国と並び立つことができることを宣言しているのである。この上奏文は、五箇条の御誓文と基本的な枠組みは同じである。
慶喜の上奏に対し朝廷は、「祖宗以来、御信任厚く、御依頼在らせられ候えども方今宇内の形勢を考察し、建白の趣旨、尤に思し召され候間、聞こし召され候。猶天下と共に、同心尽力致し、皇国を維持、宸禁を安んじ奉るべき御沙汰に候事。大事件外夷一条は、衆議を尽し、其余諸大名同じく仰出され等は、朝廷 両役(伝奏、議奏)に於て取扱い、自余の儀は、召しの諸侯上京の上、御沙汰これあるべく、それまでの処、徳川支配地、市中取締等は、是れまでの通りにて、追て御沙汰に及ぶべく候事。」として10万石以上の諸侯に直ちに上京すべきことを命じたのである。
徳川親藩の諸侯や有力諸侯は、朝廷の意向に賛意をもっていたが、掠奪無頼の徒と化した集団の薩長には倒幕・権力奪取の野望しかない。
事前に行われた小御所会議でまたも岩倉具視の背後に控える薩長の陰謀と暴力によって会議は制圧されてしまうのである。尾張藩主徳川慶勝、越前藩主松平慶永、広島藩主浅野長勲、土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津忠義、岩倉具視、三条実美が列席していたが、薩長・岩倉側の旗色が悪くなるや否や、薩摩の岩下万平が西郷に相談すると、西郷は、「岩倉に向かい、貴殿の懐剣は利れるものなりや否やと問うてみよ」と脅しをかけるように伝えたという。西郷は天皇の面前でも構わずに山内容堂を刺せと示唆したのである。
慶喜は、こうした薩長の陰謀を阻止するだけの胆力も先見の明も持ち合わせていなかった。
幕府軍と長州軍が戦った蛤御門の変で、幕府軍は長州軍を敗退させるが、二度にわたる長州征討に失敗し、慶喜は数十万の兵を見捨てて松平容保と共に江戸に帰還してしまった。
勘定方奉行の小栗上野介は、帰還した慶喜に薩長軍を打ち破る秘策を奉じるが、慶喜にはもはや戦意もなく、小栗上野介に胸ぐらを掴まれてもただ黙っているだけであった。将軍の器でない慶喜はひたすら命乞いのために恭順の意を示すため上野寛永寺に引きこもって謹慎してしまった。
小栗上野介は、仕方なく故郷の上野国権田村へ引きこもるために帰郷し、東善寺に寓居するが、そこへ西郷の指図で江戸市中であらん限りの暴虐を繰り返した無頼の盗賊団が押しかけ、小栗上野介には、「7000人の暴徒が潜んでいる」「7千余人を撃退する武力がある」「朝廷に反逆する企図がある」と喧伝し、発砲、放火、掠奪を繰り返した。さらに薩長軍に命令された高崎藩、安中藩、吉井藩の3藩の藩士1000人が東善寺を囲み、捕縛される理由もないまま烏川畔の河原で斬首され、挙げ句、鮮血に塗れた首を武竿の先端に突き刺し路傍に立て梟首の辱めを与えたのである。
こうしてあらゆる権謀術策を弄して権力を詐取した薩長は、血塗られた明治維新政府(藩閥政府)を樹立し、五箇条の御誓文とは似て非なる近代国家をつくりだして行ったのである。
ネジレにネジレた明治維新政府は、日清・日露戦争に勝利を収め、さらなる海外侵略を目論み、朝鮮・中国への侵略を現実化してアジア・太平洋戦争へと突入し、崩壊してしまうが、近代日本の保守思想には、こうした忌まわしい歴史が底流となって流れているのではないかと思う。

著者略歴:1873(明治6)年5月生まれ(1959年8月没)。東京大学法学部卒、同大学院国際法専攻、法学博士。ベルサイユ講和会議、ワシントン軍縮会議など、政治、外交、赤十字国際会議に列席。第1次世界大戦後、「平和時の赤十字」を提唱し、5大国代表と協議し1919年赤十字社連盟を創立した。歴史の専門家ではないが、法学的視点から幕末・維新史の特異な分析を試みる。

目次

維新正観
秘められた日本史・明治篇

目次

序文

第一編

一、明治維新の俗称
明治維新は幕末慶応年間の事業
明治維新とは政治の改革か
プロシヤ輸入憲法と維新

二、天皇孝明と将軍家茂との協調
攘夷ハ朕ノ好ムトコロニ非ズ
薩長の攘夷は天下取りの手段
西郷・大久保・木戸の陰謀団
孝明が攘夷を煽動し続けたなら

三、維新と人間生命の翻弄
将軍家茂は毒殺された
孝明天皇暗殺の真相を探る
坂本龍馬を暗殺した薩人
頻発する暗殺と西郷の強盗団
政治は日に日に新たなるべし
日本の武力革命史を展望する
革命実行者とその法理に就て
明治維新と称する破壊活動

四、官軍の組織的連続的奸策
万死ヲ冒シテコレヲ一言ス
(一)「討幕の密勅」は公卿の偽造文書であること。
(二)西郷が五百人の強盗を江戸市中に放ったこと。
西郷は徹頭徹尾謀叛人であった
強盗団の行方はどうなったか
(三)勅命を借りて慶喜をよびだし宮中で暗殺しようとしたこと。
暗殺の日だけ刺客を従四位に
(四)鳥羽伏見の乱の真相・偽造の錦旗を掲げたこと。
開戦の責任は西郷に在る
染物屋がつくったニセ錦旗
(五)官軍の用兵は不法であったこと。
長岡の戦争と山県有朋の不法
(六)官軍は野蛮な略奪軍隊であったこと。
薩人は屍体の肉をえぐり取った
強姦と掠奪の官軍罪状記

五、奥羽越同盟と公議府の動向
薩長に対する二十五藩同盟
幕末日本における南北戦争
幕末にできた二つの交戦国
二朝の対立は古来からもあった

六、長州征伐の理義と薩州の陰謀
天下取りの野望に燃えた長州軍
日本の全国皆兵制のはじまり
長州征伐にたいする小栗の決意
第二回・長州征伐のてんまつ
高杉晋作の薩長指弾の正論

七、慶喜の上奏した権力帰一の方策
大政奉還という言葉は後人の作
主権移動史の検討が最も大切
慶喜は何故に主権を放棄したか
新しい政治と諸大名の態度
主権者となる事を承認した天皇
慶喜は周到の注意を欠いていた
山内容堂の正論は脅迫に敗れた
権力を詐取した薩長公卿の非道

八、五ケ条の誓文と薩長政府
神明に誓った五ケ条の誓文
慶喜の上奏文を基とした五ケ条
誓文を棄てて藩閥政治行わる

第二編

一、安政条約の法理と従来の謬見
国際慣例を全く知らない攘夷党
米人も敬服した名全権岩瀬肥後
条約成立までの朝廷側の妨害
安政条約は適法な条約であった
開国に変説した攘夷論者の輩
条約改正は無理な主張

二、幕府の遣米使節と米国の歓迎
使節一行がもたらした効益
建国以来のアメリカの歓待
地球を一周した初めての日本人
西洋文明摂取の基礎ここに成る

三、維新前の外交と維新後の外交
幕末日本の優秀な外交家礼讃
内乱不干渉を各国に要求した
各国は局外中立を宣言した
征韓論で割れた利害の友
大久保は外交を理解しない
幕府と新政府の外交能力の差異
井上の条約改正は内部から崩壊
保安条例で人民を追放した伊藤
肥前人大隈の理論的な改正方法
大隈を政府から追いだす陰謀

四、幕府の樺太・琉球・小笠原島の対策
露人の褒めた川路左衛門尉
幕府の樺太視察と間宮林蔵
露国の南下を阻止した松平石見
明治政府が樺太を放棄するまで
巴里の博覧会と薩藩の不法行動
水野筑後守の小笠原島拓殖
無能な松平春嶽は小笠原を放棄
水野筑後守の識見と日本領土碑

五、幕末の財政と新政府の財政
巧妙に調達されていた幕府財政
名外交官小栗は名理財家だった
小栗の財政緊縮と旗本の怨言
全日本を通じて唯一人の先覚者
先覚者小栗の悲痛なる心事
財政窮乏に悩んだ明治新政府
財閥富豪養成は薩長の罪悪
明治新政府の無能な財政政策
新史家の説く幕府財政論
輸出超過の事実はあった
事実から離れた史論に価値なし

六、幕府の法律上の性格
幕府は全日本を支配していた
幕府は七百年間中央政府だった
家康がつくった日本国の憲法
宗教への取締は幕府の任務
公卿は武士に爵位を売っていた
外交政策からみた幕府の権力
老中・若年寄・側用取次の三役
大名と旗本とはどうちがうのか
家康は皇室に三万石を附した

第三編

一、幕末の難局打開の三方策と三人物
井伊大老は国憲の正しい遵奉者
浅薄で無謀な攘夷論者吉田松陰
軽卒に権力を放棄した徳川慶喜
パリのホテルで慶喜を語る
薩長討滅を主張した小栗上野介
福地源一郎と小栗上野
一週間に亘る最後の江戸城会議
小栗上野介の必勝の作戦計画
慶喜の袖を捉え官軍掃討を迫る
福沢諭吉翁のヤセ我慢の説
慶喜、勝一派の卑劣な自己弁護

二、江戸城降伏とその前後
薩長に内通していた勝と其一味
慶応三年三月の江戸の世情
川路左衛門尉の武士らしい自刃
江戸の開城と降伏の条件
降伏条件の適否道義よりの批判
西郷隆盛のした背信不法の談判
幕末の史実を煙滅した・勝安房
古今東西に曾てない醜悪の事例
彰義隊は理由もなく砲撃された
旗本御家人ら四十万人の行方

三、榎本艦隊の北海道占領
徳川の艦隊はどうなったか
堂々の榎本艦隊と外国の中立
ハワイ国王とならずに北海道へ
北海道共和国ついに樹立さる
政府樹立と文明的な榎本の目的
選挙された新政府の要人たち
新共和国の文明的な政策
壮烈無比なる宮古湾の海戦
我国無二の宝典海戦法規を贈る
榎本艦隊にいたフランスの士官
赤十字事業の日本の創始者
昭和の俗吏ら紀念物を破壊
江戸ッ子ベンの榎本さんの印象

四、老中安藤を襲った攘夷派とその背後
短銃をとりだし駕の老中を狙撃
安藤がおそわれた直接の理由
伊藤博文の陰険卑劣な暗殺行為
安藤追放にのりだした島津久光
井伊大老に次ぐ外交官老中安藤
老中安藤という政治家の声価
天皇孝明の豹変とその責任転嫁
徳富蘇峰の攘夷理性論を筆誅す

五、小栗上野介とその死
またまた小栗様のお役替え
決意と気はく漲る対馬事件
英傑小栗の生い立ち時代をきく
小栗の業績と其シンセリティー
王政復古とは野心家の方便のみ
江戸に建てられた最初の洋館
江戸武士のたしなみを忘れず
三野村利左衛門の千両箱を辞退
権田の山村を襲う数千の暴徒
岩倉・西郷らの予定の奸策
決死の主と別れる夫人の心事
薩長公卿らの最大の敵小栗上野
かかる場合に未練あるべからず
非礼かつ残虐な小栗上野の斬首
小栗を斬った輩の素姓を洗う
小栗斬殺事件の後日物語
殺人犯人自身の斬首口供調書

六、藩籍奉還の欺瞞と維新後の情勢
藩籍奉還の上表の真意
明治十年まで薩州は封建制
廃藩置県と藩籍の奉還
地方官の驕慢は薩長政府の遺物
新政府は天皇を神となした
専制的有害な新制度の誕生
五ケ条の誓文は反古紙とされた
明治十年まで三百件の百姓一揆
新政府要人の権力あらそい
所謂維新の元勲の悲惨な最後
天下一日の安なし

第四編

一、王政の復古と皇権の喪失
孝明天皇暗殺小説の評判
権力の争奪は神武の国初から
明治以前における歴史家の正論
尊王攘夷とは不法不義の標語
天皇及び側近者の憲法悪用
皇運扶翼の歴史は見当らない
楠木正成は光圀が忠臣にした
聖徳太子に不義不忠の行がある
日本は元来がデモクラシイ

二、天皇の権力剥落のいきさつ
ポツダム宣言を受諾する交渉
ポツダム宣言を受諾した条件
新憲法素破ぬきニッポン日記
誤訳さえある日本の新憲法
日本民族と天皇との古来の真相
民主の五誓文を破った天皇政府

三、新憲法上の天皇の地位
憲法上から天皇の位置をみる時
美濃部博士の謬論を排す
天皇におもねる危険な解釈

四、歴史家の礼讃した維新史の回顧
藤井氏の維新史観を顧る
王政復古は僅か八十年間
象徴の文字は誤解されている

注記

原ルビ一覧

維新正観・解説
歴史の中に正邪を観る
(礫川全次)

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